iの終わりに~22話
第22話 止まった時計
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黒い兎が月を見上げていた。
その姿は、やっぱり還るべき場所に思いを馳せているみたいに見えた。
フィンの髪の毛は濡れていて、冷たい青い夜にさらされた白い髪の毛からこぼれ落ちる雫が、銀貨のようにきらきらとしていた。
彼女は艶のある黒いワンピースの寝巻に、黒いパーカーを羽織っていた。
僕を見つけて視線を向けた。
「お風呂から上がったら、あなたがいなくなっていたから――」
「もしかして、探しに、迎えにきてくれたの?」
「別に、そういうわけじゃないんだけど、でも、あの子たちは眠っちゃったし、私は眠くないから、それで――」
僕はフィンの隣に並んだ。
憂鬱な気持ちが少し穏やかになり、小人の踊りは終わっていた。
「その寝巻どうしたの? 何だかとっても大人っぽいね」
「あの子たちが貸してくれたの――ネグリジェっていうみたい。胸元のあたりがぶかぶかなんだけど、おかしくない?」
「うん、いいと思うよ。でも、寒いからパーカーのジップをしたほうがいいんじゃないかな?」
確かに、兎が二羽くらい入りそうな隙間がぽっかりと空いていた。
僕はなんとなく物悲しさを覚えながら、兎の巣穴から視線を逸らした――多分、これからだ。
「ねぇ、見て――」
彼女はパーカーのフードをかぶっていて、フードからは二本の耳が飛び出していた。
「何だか、あの兎のぬいぐるみに似ているでしょう?」
「ボコッとラビット。そのパーカー、よく似合ってるよ」
「うん。何だかとっても懐かしい気がするな。あの古い図書館での出来事が、もうずっと前のこと――あの月で起きたことみたいに」
ほとんど消えてしまいそうな月が、そこに在った。
確かに、僕たちはずいぶん遠くまで来てしまったのかもしれない。
だけど戻れない距離じゃないと、やり直せない距離じゃないと、僕は一人勝手に思った。
「ここから帰ったらさ、またあの古い図書館で小さなパーティを開こうよ。フィンが紅茶を、僕がサンドイッチをつくって。きっと、すごく楽しいと思う」
兎の耳のついたフードをかぶったまま、フィンが僕を見つめた。
その表情は今まで見た彼女の表情の中で一番穏やかに見えた。
でも、何故だろう? その表情を見た時に僕が感じたのは、激しい胸騒ぎだった。
まるで、嵐の前の静けさのような。
「もう、行きましょう」
僕の提案を肯定も否定もせず、そう言って歩き出した彼女に寄り添って、僕たちが初めに案内された施設に戻った。そして、スナークが用意しておいてくれた客室に向かった。
用意された客室は二つあり、二つの部屋は隣同士だった。
「ねぇ、私の部屋に来てくれない? 髪の毛に櫛を入れて、ドライヤーしてほしいの」
「髪の毛? いいけど、自分でできないの」
「昔ね、お母さんに髪の毛を梳かしてもらったの。お風呂から上がった後は、いつもお母さんがドライヤーをかけてくれて、丁寧に櫛を入れてくれた。だからね、やってもらいたいなって」
「いいよ。あんまり上手じゃないかもしれないけど」
僕たちは用意された客室に入った。
暖炉のある洋室で必要なものは全て揃っていた。クローゼットには様々な衣装がかかっていて、ティーテーブルの上にはお菓子がたくさんあり、小さな冷蔵庫には冷たい飲み物が入っていた。
僕たちは天蓋とカーテンのついた、まるでお姫様が眠るような大きなベッドの上に座った。ベッドはとてもふかふかとしていて、これまでの疲れの全てを、優しく受け止めてくれるみたいだった。
フィンは僕に背中を向けて座った。
僕は何だかとても緊張していた。
サイドテーブルに置いてあった櫛を手に取った。
フィンの柔らかい髪の毛に櫛を通して、ゆっくりと髪を梳かした。
白い髪の毛の一本一本が絹のように艶ややかで滑らかだった。
「痛くない?」
彼女は小さく頭を振った。
僕は次にドライヤーをかけた。
「熱くない?」
彼女は小さく頭を振った。
「ねぇ――」
彼女が発したその先の言葉に驚いて、僕は手に持っていたドライヤーと櫛をベッドの上に落してしまった。優しいベッドは落ちてきたものを受け止め、包み込んでくれた。
「今、なんて言ったの?」
僕はフィンの言葉が信じられなかった。
「私たち、ここで別れましょう」
今度は、はっきりとそう聞こえた。
「何で――急にどうしたの?」
ひどく情けなく、みっともない声が零れた。
「私ね、あのスナークって人が言ってた――“ワンダーワールド”ってところに行こうと思うの。双子の女の子もいい子だし、とっても楽しそうだから、行ってみようって思う」
どうしたらいいのか、何を言ったらいいのか分からなくて、僕はその先の言葉を紡ぐことができないでした。
「私が見ていたのはぜんぶ幻だった。からっぽだった。たぶん、この世界には私の居場所なんて初めからなくて、私はこの世界では生きていけないんだと思う。だって、私にできることって言ったら、嘘を吐くことと、迷惑をかけることぐらいしかないんだもの――本当に、うんざりしちゃうんだけど。今だって、あなたにとっても迷惑をかけてる」
「迷惑だなんて思ってないよ」
「おねがい、つまらない嘘をつかないで」
僕は自分が嘘をついているのか分からなかった。
「何で、急にそんなことをいうんだよ」
「私ね、これからどうしていいのか本当に分からないの。もう、あのマンションには戻りたくない。あそこに戻ったら、私はまたお母さんの幻を見てしまう。ううん、今だってお母さんの幻を見たいと思っている。幻でも嘘でもいいから、それでもそんなものに縋りたいと思っている。本当に、やれやれって話しよね? 本当に気が滅入っちゃうわ」
今、この瞬間に、フィンがどんな顔をしているのか――まるで分からなかった。
背を向けたまま頑なに僕の方を見ない彼女の顔を見ることが、とても怖かった。
「私ね、夢の中が今より少しでもましなものなら、その中で静かに暮らしたいなって思うの。でも、分かっているの。もしも私がこの世界に居場所を求めるなら、きっとその場所を得ることだってできるんだって。でも、私はそんな“椅子取りゲーム”には参加したくない。誰かの椅子を奪いたくないの。それにね、参加した所できっと私は椅子には座れないの。いつも最後まで椅子に座れずに、惨めに誰かの座った椅子を眺めているだけ――」
椅子に座るためには、誰かの椅子を奪わくてはいけない――フィンは、そう言っているのだろうか? そんなことをするくらいなら、自分は夢の中で静かに暮らすと、そう言っているのだろうか?
そして、仮に参加した所で自分は椅子に座れないと。
「でも、あなたは違うと思う。ここにいる子供たちとは違うし、私とも違う。だから、私たちはここでお別れ。あなたは現実に還り、私は夢に沈む」
「そんなの、だめだ。夢の中は――イデアの中は、そんな場所じゃ、逃避の場所じゃないんだ。あんなところにいたら、みんなおかしくなって、現実に還って来れなくなるんだよ?」
「いいの。もう現実に還って来ることもないと思うから。だからね、もういいの――」
「よくないよ。そんなの、ぜんぜんよくないじゃないか? 僕だって、誰かの座る椅子を奪って生きてなんてないし、そんなことしたくないよ。そんなことしなくたって生きていけるよ」
「そうかしら? たとえば子供たちが五人いる。でも目の前に椅子は四つしかない。そうしたら、誰かが椅子に座ることを諦めるしかないでしょ? そういうことなの――別にね、むずかしいことを言っているわけじゃないの」
「そんなこと――そんなの、たんなるたとえ話じゃないか」
「そうね。ただのたとえ話ね。自分でもがっかりするくらい、つまらないたとえ話。ねぇ、どうして、そんなに私のことを引き留めるの?」
僕は、何て答えればいいのか分からなかった。
いや、分かってはいたんだ。
でも、どうやって言葉にしていいのかが、分からなかった。
「あなたが、三年間眠り続けていたから? 現実に還ってきたときに、とても苦労をしたから? 夢の中が、新世界が間違っていたから? 楽園がないって知っているから? もう夢を見ることができないから?」
そんなんじゃなかった。
「でも、それだったら、あなたは全ての子供たちにそう言うの? そう言えるの? 全ての子供たちを止めて、全ての子供たちを説得するの? ディドルディドルだけじゃない――夢の中に沈んで、現実に還ることを拒否している全ての子供たちに、それは間違いだから現実に還ってきてしっかり生きていきなさいって言うの? あなたの言っていることは全部正しいの?」
「そんこと、分からないよ。僕が正しいのかなんて、僕にはぜんぜんわからないよ」
僕は途方に暮れたように、分からないと答えた。
「じゃあ、どうして私を引き留めるの?」
それ以上、もう言葉を紡ぐことはできなかった。
何だか自分の行いの全部が間違っているような気がした。
そう思ってしまったら、もうフィンに何かを告げることができなかった。
――誰も螺旋を巻かず、歯車はすり減って、発条は明後日の方向を向いている――とっくに、時計の針は止まっているんですよ
スナークに言われた言葉を思い出した。
僕の中の針は止まってしまった。
「あなたと一緒にいるとね、とってもつらいの。それにね、とっても痛いの。こんなに気持ちになって、あなたをこんな気持ちにしてしまうくらいなら、私は静かに眠っていたい。でもね――」
フィンの言葉はとても優しかった。
「あなたと出会ってからの数日間は、本当に楽しかったな。とってもキラキラしてた。本当にわくわくする大冒険だった。だからね――」
そう言いながら、フィンはゆっくりと振り返った。
もしも振り返った時に彼女が泣いていたら、もしも彼女が別れを惜しむような顔をしていたら、僕は絶対にフィンをここから連れて逃げる、そう自分にいい聞かせた。
「ありがとう」
振り返ったフィンのは無表情だったけれど、全ての柵を断ち切ってしまったみたいに、とても穏やかだった。
フィンから初めて言われたその言葉は――“ありがとう”の言葉は、とても悲しくて、ぜんぜん嬉しくなかった。
フィンにありがとうって言われたらどれだけ嬉しいだろうと、どれだけの喜びがあるんだろって思っていた。
それなのに、こんな悲しい“ありがとう”があるなんて、僕はぜんぜん知らなかった。
その言葉一つで、僕は全てを諦めた。
「ねぇ、“あのドアを出るのに4秒かかるわ。2秒あげるから出ていって”。もう、あなたは現実に還って」
僕は言われるままに立ち上がり、ドアを目指した。
あのドアを開けたら全て終わり。この冒険は終わりで、僕は現実に還る。
ドアを開けて、ドアを閉めた。
一度も振り返らずに、一度も声をかけられずに。
ドアの閉まる小さな音がしたとき幕が下りたのが分かった。
その音は“橋”が壊れる音で“卵”が割れる音だった。
なにひとつ元に戻らない――すべてが壊れていく音だった。
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