ハックルベリー・フィンに出会ったのは、新学期の初めての登校日だった。
高等学校の“古い図書館”の二階――現在は“書庫”としてしか使われていない、鍵のかかった建物だった。
その出会いは長すぎる一年間を終えて、ようやく迎えた高校二年生の新学期を台無しにしてしまうくらいには、衝撃的だった。
それは、まるで現実感のない――夢のような出会いだった。
今思い返してみても、ほんの数日前のあの出会いが本当に現実だったのかどうかを、僕は正確に判断をつけることができないでいる。それは、現実というにはあまりにもリアリティがなく、夢と呼ぶにはあまりにも曖昧さに欠けていた。現実と夢の境界線みたいなものが、幾分かあやふやになって混ざり合ってしまったように――とにかく、はっきりとしない出会いだった。
だけど、あれが間違いなく現実であったことを僕は知っている。
だって、僕は夢を見ることがないのだから。
古い図書館を二階へ上がる階段は、ぐるぐると渦を巻いた螺旋階段で、僕はひんやりとした鉄の手すりを掴みながら、足元の覚束ないそれを上り終えた。
兎の巣穴から顔を出すように、薄暗い古い図書館の二階を眺めた。
そこは、あらかじめ伝え聞かされていた雰囲気――“ロージャ”と“アルカーシャ”が暮らしているような、物置か墓穴のような雰囲気は、まるで存在していなかった。
入り組んだ梁にかかるガラスランプ、ペルシャっぽい赤い絨毯、丸みを帯びた可愛らしい家具、ヴィクトリア朝っぽいティーテーブルと椅子――その奥には、大きな背もたれに大きな肘掛のついたまるで王冠を模したようシングルのソファー、ティーテーブルの上にはティーポットとティーカップが並んでいた。
間違った物語のページをめくってしまったように、螺旋階段がまるで“不思議の国”への入り口になっているみたいだった。
僕は現実を踏み外してしまったような感覚におそわれ、螺旋階段を下って現実に戻りたい、そう思った。
階段を下ろうと足を動かした時、不意に下校を知らせる時計台のチャイムが鳴り響き、僕の背を貫いていく一筋の光に――僕は、思わず振り返ってしまった。
女の子が眠っていた。
とても静かに。
ドヴォルザークの『新世界より』の第二楽章――『家路』のチャイムの音が鳴り響く中、ビロードのカーテンの隙間から刺し込む黄金の光に包まれた一人の女の子が眠っていた。
ライ麦畑で毒の入ったリンゴを食べてしまったみたいに。
女の子は赤い絨毯の上に仰向けになり、両手をひかえめな胸のふくらみの上で組み合わせて目を瞑っている。その姿はまるで何かに祈っているように見えた。
僕は眠っている少女の元へと足を進めた。
女の子の伸ばしたつま先の前に立ち、全身を見つめてた――引き寄せられて、吸い込まれるように。
女の子は僕と同じ黒を基調とする夜色の制服を身に纏っていて、長いスカートから伸びる二本の足は素足だった。見慣れた黒い制服が、何故か“喪服”に見えた。“ガラスの棺”に入れられて、今直ぐにでも“七人の小人”が女の子を森の奥深くへと運んで行くんじゃないかとさえ。
黒い葦のように生え揃った長い睫毛、紅を塗ったような赤い唇、そのどちらもが閉じられた女の子の寝顔からは、何も読み取ることはできなかった。
心地良さそうでも、安からでもなく、苦しんでもいない、そこに浮かんでいる表情は完全に無だった。まるで色を失ってしまったかのように。
そして、女の子の髪の毛を眺めた。
白い髪の毛だった。
小さな頭に黒いカチューシャをつけて、それと対比した白い髪の毛は本当に綺麗だった。こんな完璧な白を目にしたことがないと思えるほど――その白は、どの白よりも白かった。
黄昏の光に包まれる白髪は金色にも銀色に輝いて見え、光と灯しながら反射しているみたいだった。
僕は腰を屈めて膝をつき、女の子を眺め続けた。
寝息一つ立てていない女の子が、息をしていないようにも、その生命の活動の全てを止めてしまっているようにも、まるで彼女の周りだけ時間が止まっているようにも見えた。
赤い絨毯の上に零れた白い髪の毛をそっとなぞり、僕は手を伸ばして女の子の頬に触れた。ガラスのようにひんやりとしていた。もしかして息をしていないんじゃないかと戸惑った僕は、思わず身を乗り出してしまった。
点と点を線で結ぶように、少しずつ僕と彼女との距離が近づいていくと――
突然、黒い葦に風が吹いた。
開かれた睫毛の中の黒い双眸がぼんやりと僕を見つめた。
僕は女の子の瞳に釘付けになった。
時計の針を止めてしまったみたいだった。
目を覚まし、その表情に一切の感情を浮かべていない女の子は閉じていた唇を開いた。
「ねぇ、これは現実かしら? それとも、まだ夢の中――これは夢の続きなのかしら?」
静かに、凛と響く声だった。ガラスの鈴を鳴らしたように。
その声には抑揚が存在していなかった。女の子の髪の毛の色と同様に、感情の一切が抜け落ちたような――そんな喋り方だった。
真っ白な声と言葉に、僕は言葉を返せずにいた。
「これは、あなたの夢の中?」
「いや、その――」
女の子の吐息が僕の鼻先を擽り、彼女とのその距離の近さと、その唇の赤さに驚いた僕は――体を仰け反らせて、その場に尻もちをついて後ずさった。
お尻を浮かせたまま器用に四本の足で後退すると、勢いよく背中を打った。振り返ってみると そこは背表紙がぎっしりと詰まった本棚で、一冊の本が僕の頭の上に落ちてきて、その本の角が後頭部に命中した。
思わず呻き声を漏らし、頭を抱えて悶えた。
「ごめん、君の眠りを邪魔するつもりじゃなかったんだ。その、まさかこの古い図書館に誰かがいるなんて思わなくて――それにさっきのは、さっきのっていうのは、君の顔を覗き込んでたことだけど、別に変な意味があったわけじゃなくて、君があまりにも静かに眠っているから――その、大丈夫かなって思って」
僕は両手を前に突きだして言い訳がましく言葉を並べた。
「大丈夫かなって?」
女の子は僕の言葉の意味がまるで分からないといった感じだった。寝起きだからなか? 僕はどう説明すればいいのか分からず、言葉に詰まってしまった。
「ねぇ、私はまだ夢の中なのかしら?」
女の子は先ほどから繰り返している質問を、もう一度した。黒い双眸が先ほどよりもしっかりとした黒さを、現実の硬さを取り戻しているような気がした。
だから、僕も少しだけ落ち着きを取り戻せた。
「僕は君と同じこの高校の生徒だよ。二年生。新学期の今日から、この古い図書館の管理というか、本棚の整理とか掃除の類を任されたんだ。図書館司書のアシスタントをしてるんだ。それと、ここは紛れもない現実だと思うよ。僕が誰かの夢の中にいるっていうんじゃなかったとしたら」
「そうなの――」
女の子は消え入りそうな小さな声でそう呟いただけだった。
「ごめん、夢を見ている途中だったんだ? 邪魔しちゃったみたいだね」
「いいの。どうせ、見たくもない怖い夢だったし、そろそろ目を覚まさなくちゃ思っていたところだったから」
「見たくもない、怖い夢?」
僕は思わず信じられないと彼女の言葉を繰り返してしまった。
女の子は特に気にした様子もなく、僕を不思議そうに眺めた。
「ええ、いつもそうなの。見たくもない怖い夢ばかり。でも、何でかしら? なんだか、いつもとても大切な夢を見ていたような気がするの。手を伸ばしてみるんだけど、いつも手が届く前に目が覚めてしまうの。ねぇ、あなたは一体どんな夢を見るの?」
赤い絨毯の上に寝そべったままの女の子は何気なく尋ねた。
抑揚も興味もなく、ただ尋ねてみたといった調子のその言葉に、僕は深く動揺してしまった。
思わず、先ほど頭の上に降って来た本に手を伸ばして――それを強く握った。
「僕は、夢を見ないんだ。もう、夢は見れないんだ」
両方の手でその本を握りしめた。
震えそうになる声を必死に押さえつけるように。
女の子は小さく頷いた。
「そうなの」
女の子は体半分を起こして、僕と向かい合うように体の向きを変えた。そして黒い瞳の奥に僕を映し込んだ。白い髪の毛が肩の先からこぼれて揺れた。
「君は、どうしてこの古い図書館に?」
思わず尋ねてしまった僕の言葉に少女は指を差しただけで、それ以上何も言わなかった。
指を差した先は、僕が先ほどから縋り付くように握りしめていた文庫本だった。
――『ハックルベリー・フィンの冒険』。
「ハックルベリー・フィンよ」
少女はその物語を指して、そう名乗った。
それが、僕と女の子の――
――ハックルベリー・フィンとの出会いだった。
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第1話終了です。↓で続きが読めます。
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