一郎は資材置き場に身を隠したまま、衛宮が迎えに来るのを待ち続けた。
一郎自身、どうして衛宮に電話をしたのか分らなかったが、彼ならなんとかしてくれんじゃないか、そう思ったからだった。
二人が出会ったのは汐留のバーだった。
バーの名は――『電気羊』。
マトリクス社近くの裏通りでひっそりと営業している、隠れ家のような酒場だった。
地下にある僅か二十席程度の店内には、小さなボリュームでオールディーズの音楽が流れ、バーカウンターの奥にかかったスクリーンには、いつも懐かしの洋画が上映されていた。
そのバーで、一郎はいつも電気ブランを注文した。
酒に弱い一郎が酔っぱらうには一番手頃な酒で、ビールをチェイサーにして電気ブランを煽ると、気持ちよく酒に溺れることができた。
二月ほど前の事だった。
あの日も一郎は始発が出るまでの時間を潰すために、電気羊を訪れて一人電気ブランを飲んでいた。
すると、一人の男性が声をかけてきた。
「おもしろい酒を飲んでいるんだな?」
長い黒髪の男性だった。中性的な容姿で、思わず女性と見間違えるだけでなく、少年にも、青年にも、中年にも見える不思議な男だった。年齢は不詳で、どことなくエレガントな雰囲気を持っていた。高級そうなスーツを身に纏い、まるで映画のスクリーンの中から飛び出して来たような男性だと、一郎は一目見て思った――
自分とは、住む世界が違うのだろうと。
急に話しかけられた一郎は、驚いてしばらく何も言葉を返すことができずにいたが、いつの間にか二人は打ち解けていた。酒の力もあったが、気が付けば一郎は衛宮蔵人と名乗った男性に多くのことを話していた。衛宮は話を人の話を聞くのが非常に上手く、一郎の面白くもない話を嫌な顔せず、一語一句漏らさずに聞いてくれた。
衛宮はあまり自分のことを話さない男だったが、一郎が何の仕事をしているのかと尋ねると「危機管理のコンサルタント」だと答えた。コンサルタント業を始めるまでは、自衛隊や警察関係の政府機関で働いていたとも話してくれた。
その事が一郎の頭に残っていた。
だから、迷わず衛宮に電話をかけた。
彼なら、この危機的な状況を打開してくれんじゃないかと信じて。
「まだか? まだなのか?」
一郎は電源の切ったスマホを握りしめ、不安を押し殺しながら耳を澄ましていた。
すると、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
一郎は恐る恐る積まれた資材から顔を出した。足音の方に視線を向けてみると、黒い服装をした男性の姿が見えた。
「見つからない。逃げられた」
男は電話越しに誰かと会話をしており、その内容を聞いた一郎は心臓が破裂しそうなくらい驚いた。
あの男は間違いなく自分を探している。
一郎は確信した。
「分ってる。そう遠くには行っていないはずだ。大通りは見張っているんだろう?」
少し間があった。
「端末に情報を送ってくれ。早く片付けて仕事を終わらせたい」
電話を切った男は、迷いのない足取りで建設中のビルに向ってきていた。
「どうしよう。逃げなきゃ? でも、もう直ぐ衛宮が――」
一郎はしゃがんだまま歩きだし、資材置き場を抜けて鍵のかかったフェンスをよじ登り、シートで覆われた建造物の中に侵入した。
鉄筋が張り巡らせられた建設中のビルは、身を隠すには打ってつけだと思ったのだが、一郎は建物の中に侵入して直ぐ、建物の中に入ったら逃げる場所がないことに気が付いた。
「どうしよう? あの男がこの建物の中に入ってきたら、もう終わりだ……」
慌てた一郎は視界の悪い足場を右往左往し、その際に釘の入った箱を勢い良くひっくり返してしまった。
金属の甲高い音が建物中に響いた。
「やばいっ。何をやってるんだ、俺は?」
すると、何者かが建物の中に侵入してくる音が聞こえて来た。
「きた? どこかに逃げなきゃ。いや、隠れてやり過ごすしか……」
一郎は姿勢を低くして建物の中を移動した。
二階に続く作業用の階段を見つけて、音を立てぬように階段を上り、作業用の足場を進んで二階のフロアに上がった。そしてフロアに隅に積まれた段ボールの箱を見つけて、その陰に身を隠くそうとした。
「そこまでだ。これ以上、手間をかけさせるな」
冷たい金属音と共に、無感情な男の声がフロアに響いた。
振り返ると黒い目出し帽で顔を覆った男いた。
男は一郎から少し離れたところに立ち、何かを突きつけていた。
「やっ、やめてくれ――」
それが拳銃だという事には、直ぐに気が付いた。
一郎は懇願すように言った。
「頼む。俺は何も知らないんだ。何もしてない。だから……頼む、殺さないでくれ」
泣きそうな声で囀るように言った。
「黙ってろ。お前に危害を加えるつもりはない。俺の言う通りに行動すれば、しばらくは生かしておいてやる」
「しばらくって……俺に何をするつもりなんだ? お願いだ、ひどいことはしないでくれ」
「黙れって言っている。いいから、俺に従ってこっちにこい」
「嫌だ。止めてくれ」
「大丈夫だ。今は何もしない。これからお前の部屋に行って、少し話を聞く。全部話せば、その後は解放してやる」
「おっ、俺は何も知らないんだ。誰かに……このことを話したりしない。だから、見逃してくれ……」
一郎は目に涙を浮かべ、顔を引き攣らせながら言った。足は震え、今にも崩れ落ちそうだった。もうすでに、生きているのか死んでいるの分らなくなっていた。
「いいか? これが最後の警告だ。黙って俺の言う通りにしろ。さもなきゃ、ここでお前を殺す」
男は握った銃をチラつかせ、引き金に置いた指に力を込め始めた。
「両手を上げてこっちにこい。妙な真似はするなよ」
「嫌だ。行きたくない。頼む、殺さないでくれ」
一郎は混乱して泣き叫ぶように言った。
「黙れっ。声を上げるな」
一郎の様子に痺れを切らした男が苛立ち、引き金を引こうとした。
その瞬間――
大きな銃声がフロアに木霊した。
一郎はその場に崩れ落ちた。
それと同時に、一郎に銃を向けていた男も崩れ落ちた。
「えっ?」
銃声は目出し帽の男の背後から発せられた。
自分が撃たれたと勘違いした一郎は、呆然と銃声のした方角を眺め、その先に立っている男性を見つけた。
長めの黒髪を靡かせたスーツ姿の男性だった。。
「イチロー、大丈夫か?」
スーツの男性は素早く足を進め、目出し帽の男の生死を確認した。首筋に手を当てて脈を取り、目出し帽を剥いで顔を確認する。死んでいることは明らかだった。そして男が持っていた銃を回収すると、スーツの男性は一郎の手を取って引き上げた。
「ほら、しっかりしろ。立てるな?」
「あっ、ああ。衛宮、来てくれたのか?」
一郎は心ここに在らずで言った。
「ここを離れるぞ。この男の仲間が直ぐ近くにいるはずだ」
衛宮が一郎を急かすが、一郎の足は動かなかった。
「俺、ただの出来心で部長の端末に侵入しただけなんだ。本当だ。それが……こんなことになるなんて。なぁ……この男、何者なんだ? それに、死んでるのか? なぁ、どうなっているんだよ?」
一郎は見開いた両目から涙をこぼし、胸の奥の全てを洗いざらい吐くように言った。
「しっかりしろ。話は後だ」
衛宮は一郎の頬を叩き、両手で一郎の頭を掴んで自分の方に引き寄せた。
「いいか、まずはここを無事に抜け出さす。お前の話を聞くのはその後だ。死にたくないんだろう?」
「分った」
衛宮に頬を叩かれ、その鋭い視線に当てられた一郎は、ようやく我に返って小さく頷いた。
「よし、行くぞ。ついて来い」
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