今日こそ仕事をやめてやる。
そう決意して出社した二時間後――
その決意は重度の疲労と睡眠不足によって消え去っていた。
システム・エンジニアである鈴木一郎は、パソコンの画面にびっしりと並んだ英数字に向かい合い、誰が書いたのかも分らない下手くそなソースコードの書き直しをしていた。
昨日まで動いていたはずのプログラムのコードが、今朝出社したら動かなくなっていたのだ。
昨日から新しくプロジェクトに参加した三人の技術者の誰かなのだが、一郎には犯人捜しをするような気力も余裕もなかった。そんなことをしたところで、このプログラムが正常に動き出すわけじゃない。
今の自分にできるのは、ただ一つ――
一分一秒でも早くこのコードを書き直し、何の役にも立たないこの英数字の文字列を、形だけでも動くプログラムに仕立て上げることだった。
それがシステム・エンジニア――鈴木一郎の義務と責任だった。
データレイアウトが変わっている。自分が書いていないコードが大量に埋め込まれている。コメント行が読めない。美しくない表現に苛立つ。出社したのにネットしかしてない社員は全員クビになれ。インデントもできない素人は母親のお腹の中に戻ってろ。理由もなく壊れたり、理由もなく直ったりするプログラムをつくる奴は、C言語で会話できるようになるまで雑巾がけでもしてろ。センスのかけらもないコードを書く奴は、今直ぐこの世から消滅しろ。来世はちゃんと走るコードになって生まれて来い。
呪いにも似た不満や愚痴の数々を呑み込んで、一郎は死んだ目でキーボードを叩き続けた。
もう丸々一月休んでいなかった。残業時間は二百時間を超えていた。昨日家に帰ったのは始発電車だった。昨日じゃない、今朝だ。それも一週間ぶりの帰宅だった。滞在時間は僅か三時間だった。でも、ほんの少しだけ気分が紛れた。撮りためていた深夜アニメを一本だけ見られた。録画機器の容量はいっぱいになっていた。2テラバイトの容量が未視聴のアニメや洋画などで埋まっていた。
次にゆっくりとアニメが見られるのは、一体いつになるだろう?
そんなことを思いながら予約録画の設定をしていると、一郎は自分が涙を流していることに気が付いた。
その時――
明日こそ仕事をやめようと決意した。
しかし、一郎は今日も仕事を辞めると言いだせなかった。
きっと明日も言い出せないだろう。
明後日も明々後日も、それを切り出すことができないだろう。
そんなことは自分でも分っていた。
昔から自分の意見を主張したり、他人の意見を否定したりすることがひどく苦手だったのだ。それは死ぬまで変わらないだろう。自分は母親のお腹の中に、自己主張と呼ばれるものを置いて生まれて来てきたのだ。
一郎は意識を半分飛ばしながらキーボードを打ち続け、ふと今朝のことを思い出していた。駅のホームに入ってくる電車を見て――今ホームに飛び込んだら一週間くらい仕事を休めないだろうか? そんな破滅的なことが脳裏に過ったことを思い出した。
今年で二七歳。
就職活動に失敗して二年引きこもった。その間、友人の誰にも連絡を取らなかった。もともと少なかった友人は、今では一人もいない。社内にも友人と呼べるような人間はおろか、悩みを相談できたり愚痴をこぼせるような同僚や先輩すらいなかった。
それでも五十社以上の不採用通知を経て、ようやくありつくことができた契約社員の職。
それもソフトウェアやシステム開発など、インターネット関連のサービスと製品を提供する国内最大手のサイバー・マトリクス社。採用が決まった時は泣いて喜んだ。
一郎はその時――自分の人生を立て直そう。もう一度設計し直そうと、何度も心に誓ったはずだった。
それから四年。
一郎の人生は設計し直されるどころか、今自分が必至に書き直しているコードのように、何の役にも立たない意味のない文字列に成り果てていた。まるで複雑に絡まり合った、抜け出せないコードの迷路の中にいるかのように。
俺の人生は『スパゲッティコード』みたいなものだ。
それが、一郎が心の中で呟く口癖になっていた。
『スパゲッティコード』とは、処理の流れや構造を把握しづらく解読が難しいプログラムのことを指す。皿に盛ったスパゲティのようにロジックが絡み合っていることが由来となっており――つまり今、一郎が向かい合っているコードと、一郎の人生そのものだった。
一郎はいっそのこと『rm -rf /』を書き込んで、全てを終わらせてしまいたい。そんな破滅的なことを願ってみたが、もちろんそんなことが出来るわけなかった。
『rm -rf /』はパソコンのドライブの中身をすべて削除する破滅の呪文なので、良い子のみんなは絶対に唱えないようにしてくれよな。
一郎は心の中で空想の子供たちに向かって声をかけた後、ふと考えた。一体何時になったら、自分はこの絡まり合った皿の中から抜け出すことができるのだろう? そんなことを考えても一向に答えが出ることはなく、そして自分の仕事が終わることもなかった。
一郎はただただ心を殺し、ただただキーボードを叩き続ける歯車に成り果てて、目の前の仕事に向き合った。
それが、システム・エンジニア――鈴木一郎の義務と責任だった。
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