iの終わりに~30話
i アリス
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イデアの中は深く淀んでいた。
エントランスを抜けてイデアの底に沈んでいくと、エレベーターは水で滲む絵のように霞んで消えてしまった。
僕は汚れたイデアの海に投げ出された。
その海は血と硫黄の匂いがした。
誰かが血と涙を流しているみたいに。
この海が淀み、濁り、穢れていたとしても、それでも僕はここに還ってきたんだいう感覚で胸がいっぱいだった。
母親の子宮の中に戻ったみたいだった。
かつてこの海は澄んでいた。
青く透明な美しい海だった。
そして、その先は幾つもの星々が輝く宇宙だった。
終わりない宇宙に輝く眩い星の一つ一つが、子供たちの見る夢の形だった。
星の数だけ子供たちの夢の形が、夢の営みが存在していた――おおきな星、ちいさな星、まばゆい星、あわい星、もえる星、あおい星、幾つもの星々が織りなす宇宙は広大で美しかった。
子供たちの宇宙は、夢見ることで輝く天体は億光年先までも続いていた。どこまでも、どこまでも――
――それが、今は暗闇に閉ざされていた。
黒いヴェールが幾重にも折り重なり、渦を巻いて中心に集まっていくように、黒い天体が全ての星を呑み込もうとしている。
遠くに見えるそれはからっぽの井戸みたいだった。
黒い天体からは底なしの暗闇が溢れ出し――溢れ出す濃い闇は、しわがれた黒い髪の毛に見えた。
それは海を汚し、淀ませ、濁らせ、穢す――呪いに見えた。
宇宙の終わりを齎す災厄みたいだった。
――“この世の全ての悪夢”。
僕はこの星の無い宇宙に一つの天体を創ろうと手を翳した。
創った小さな星は、まるで消し炭のようにぼろぼろと崩れ去り、僕の手の中から消えてしまった。
イデアの中に充満する集合知が、うまく想像したものを形作れなくなっていた。重なり合うはずの欠片が粉々に砕けて、辞書の中の文字が全てでたらめに入れ替えられてしまったみたいだった。
思い描いたものを好きなように書くことができた真っ白な紙は、真っ黒に塗りつぶされていた。もう、二度と夢を見ることを許さないというように。
僕の体は少しずつ暗闇に吸い寄せられ、井戸の穴から伸びるしわがれた黒い髪に絡め取られた。
そして、その引力に引き込まれて、悪夢の穴に呑み込まれていった。
不思議と、不安や、怖れや、畏れや、怯えのようなものはなかった。
たぶん、この夢の中に沈んだ時、海の一滴になった時に――君が、僕のすぐ隣にいるような気がしたから。
――忘れないでほしい、
声が聞こえる。
とても懐かしい声が。
――君が目を閉じるとき、微睡みの中に溶けるとき、新しい世界へ現れるとき、僕はいつだってそこにいる、
僕は幼い頃に戻っていた。
そして、目の前に君がいた。
僕たちは再会した。
「久しぶりだね。君がイデアの中に沈んだ瞬間に、君がここに戻ってきたってわかったよ。それに、君はそろそろ来ると、ぜったいに来てくれると思っていた」
「本当に、君なの?」
僕は幼い声で尋ねた。
「うん」
幼い声が答えた。
出会ったころと同じ、幼い姿のままで。
「ここで、ずっと僕を待っていたの?」
「うん。僕はずっとここで君を待っていた。君は、僕を“新世界”に連れて行ってくれた。一番最初に“招待状”を送ってくれた。現実で会ったこともない――顔も、声も分からない、男の子か、女の子かどうかも知らない、この夢の中で出会った僕のために」
僕たちはこのイデアの中で出会い、そして仲良くなった。
現実でのことは尋ねなかった。
ただ、現実に還りたくないと、幸せな夢の中で楽しく暮らしたいと――君はいつも言っていた。
「僕は現実ではガラクタだった。いらない歯車だった。そんな僕に、君は最高の世界を見せてくれた」
夢を上手に見ることができないという君に、君の知らない世界を見せてあげたかった。
夢の中で一緒に遊びたかった。
ただ、それだけだった。
「このイデアの中では、全てを叶えることができる。それでも想像力の乏しい、何も創り出すことができない子供は誰かの夢に依存することでしか、他の子供と関わることができない。誰もが上手に絵を描けるわけじゃない。そんな子供もいるんだ。僕みたいにね」
「でも、あの新世界は間違ってだ。だから、最後には壊れてしまった。僕は間違ったものを創ったんだ。けっきょく、全ての子供を幸せにする夢なんてなかったんだ。だから、卵はわれた。そのせいで――」
その先の言葉を言い淀んだ。
どうしても、その先の言葉を告げることができなかった。
「間違いなんてないさ、正しさがないようにね。それは、人それぞれなんだよ。でも、あの世界で神だった君がそういうなら、あの新世界は間違いだったんだね」
悲しげな笑顔がこぼれた。
「僕はそんなものになりたかったわけじゃない」
「確かに、君は神には向いていない」
「僕は、ただみんなで楽しく遊びたかっただけだった」
「君の見た夢はあまりにも幼すぎた。幼いが故に、その夢は純粋て崇高だった。君は他の子供たちの誰よりも、子供なんだよ。人としてもポンコツなんだ。僕は君のそんなポンコツなところが好きだった。そして未熟すぎて、優しすぎるところが――」
こぼれるような思いが僕に伝わってきた。
「あの新世界で最期を過ごすことができて、僕は本当に幸せだった。君と、多くの子供たちに看取ってもらうことができて本当に嬉しかった。僕にとって現実は苦しみだった。ただの悪夢だった。僕は“悪夢”に生まれた。多くの子供が悪夢の中に生まれた。でも、“本当の悪夢”の前にここに来ることができてよかった。僕が現実で君みたいな目に遭ったら、僕なんかどうしていいのか分からずに、ただしくしく泣き伏せることしかできそうにないんだからさ。僕には現実の重力は重過ぎる。もちろん現実が誰にとっても悪夢ってわけじゃない。僕にとって悪夢だったってだけさ。僕のような子供だっている。だから、君にあの新世界が間違いだったと語られるのは――少しさみしいな」
僕は何て言葉をかけていいのか分からなかった。
そんな僕を見て幼い笑顔は頷いた。
「覚えていてほしい。このイデアで最期を過ごした子供の全てが幸だったって満足している。彼らは僕と同じよわい子供なんだ。そういう子供にとっては、やはりこのイデアの中は幸せなんだよ」
「君はいったい、どうなってしまったの?」
「僕は僕だよ。君と同じ」
「でも、君は死んでいるんだ」
僕ははっきりと死を口にした。
まるで自分の一部を失ってしまうみたいだった。
「うん。現実での僕はもういない。だけど、僕の意識はイデアにとけることなく、そのままの形でここに存在している」
「それはどういうことなの――ほんとうに、神になったの?」
「どうだろう? 僕は永遠を手に入れた。ある意味では神なんてものに近いのかもしれない。だけど、君よりもポンコツで、まるでガラクタみたいな僕が本当に神だったら、今頃このイデアはめちゃくちゃだよ。それこそ、バケツをひっくり返したみたいにね」
残念そうに首を横に振った。
「でも、僕は“アリス”なんて呼ばれて、多くの子供たちに崇拝されてしまっているみたいだね。やれやれ。確かに僕は永遠だ。でも、いや、だからこそ、僕はイデアに干渉することはしないんだ。君の目の前に現れたのは、それが約束だから」
「今まで会いに来れなくて、ごめん。ずっと目を背けてた、逃げ続けてた。本当に、ごめん」
「逃げることは重要だよ。立ち向かうだけが人生って奴じゃない。気に食わなければ眠ってしまえばいいんだよ。もうだめだと思ったら、そこで何かを終わらせたってかまわないんだ」
「でも、僕はまだ終わらせたくないんだ」
「うん。君はまだ終われない」
僕は別れを告げたくなかった。
もっと話していたかった。
会いに来ることができなかった長い時間を埋めたかった。
「大丈夫だよ。ここには全てがある。そして全ての子供たちがいる。今、この瞬間も子供たちはここに還ってきている。僕はその子供たちを優しく迎えいれて、“おかえり”よく還ってきたね――“おめでとう”って、言ってあげるんだ」
「よく分からないよ」
「うん。よく分からないと思う。だけど、それはここに来たものにしか分からない。夢を見るっていうことは、少しだけ死に近づくことなんだ。でも、君がここに来るには早すぎる。僕は、まだ君に“おかえり”も“おめでとう”も言いたくない。君にはまだやるべきことがあるし、現実で生きる強さがある」
「強さなんてないよ。君が言う通り、僕はポンコツなんだ。失敗ばかりして、後悔ばかりして――」
「確かに、君は強くないし、とびっきりのポンコツだよ。だけど君は諦めない。君は何度でも手を伸ばす。強くなくても、タフじゃなくても、ちいさな勇気を持っている。そういう子供は現実でも生きていけるんだ」
強く無くても、タフじゃなくても、ちいさな勇気があれば生きていける。
僕はその言葉を胸に深く刻みつけた。
「多くの子供たちの中で、君だけが深度十三階に辿りつけた。多くの子供は辿りつけなかったんじゃない、その場所を必要としなかったんだ。手頃な夢で満足した――自分が幸せな夢に沈めるだけでよかった。だけど君だけが誰かのために夢を見た。器になろうとした。傷つきながら夢を追った。それが僕のためだったことが、僕は嬉しいんだ。それを僕は誇りに思い、僕の人生で唯一の勲章だと思っている。だから、もう行けよ」
両手を広げて、さぁと暗闇を指さした。
時計の針がゆっくりと動き出していた。
時間が来たんだと分かった。
列車が発車するみたいに。
「君は、また誰かのために夢を見る――」
送り出す声は少しだけ震えていた。
僕も震えていた。
「たとえ傷ついたとしても、君は手を伸ばす。そして必ずたどりつくんだ。君を待つ人のところへ――さぁ、行けよ」
「ありがとう」
僕たちはゆっくりとすれ違った。
別れは告げなかった。
再び顔を合わせるその時に思いを馳せながら。
金色の髪の毛が靡いて、青いエプロンドレスの裾が揺れたような気がした。
小さな女の子が、そこにいたような気が――
きっと、僕はここに還ってくる。
僕だけじゃなくて、きっと全ての子供たちが――ここに還って来る。
その時に“おかえり”と“おめでとう”を言われて――“ただいま”とこたえるために、
もう一度、君と出会うその時のために。
「忘れないでほしい――」
言葉が、いつまでもリフレインしている。
「君が目を閉じるとき、微睡みの中に溶けるとき、新しい世界へ現れるとき、僕はいつだってそこにいる――」
目を背け、耳を塞いでしまったその言葉の続きを、僕は聞きたかった。
あの時はこの言葉の続きを聞くことが怖くて逃げだした。
だけど、今はその言葉を受け入れることができると分かっていた。
「僕だけじゃない全ての子供たちがそこにいる。そして君がここまで歩んできた人生の足跡がそこにはある。だから目を開いた時、光の中にいる時――君は前だけを、君が歩んでいく道の先だけを、続いていく君の人生だけを見つめ続ければいい。ありがとう」
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