繋いだ手を縋るように見つめ、ひんやりとした彼女の手の感触を感じていた。
もう、あれからずいぶんと時間が過ぎていた。
彼女に「行かないで」と言われたけど、僕は一度だけ握っていたフィンの手を離してこの場所を離れた。保健室で湿布と包帯をもらい、ハンカチを水で濡らして戻った。彼女の腫れた足に水で濡らしたハンカチを当てて、湿布と包帯を巻いた後――僕は再びフィンの手を両手で握った。
何となく、その姿は神に祈るような姿だなと思った。
僕はその考えを僕は深く嫌悪した。
彼女の手を握り、彼女が眠っている間――僕はずっと一つのことを考えていた。
――フィンが現実の世界に戻ってこなかったらどうしよう?
僕はフィンが背表紙を撫でていた本を手に取って、パラパラとめくってみた。
――“ちいさなイデアの不思議な世界”。
それは有名な児童書で――子供たちが生まれながらに発症している病気“アナムネシス・シンドローム”を分かりやすく伝えるための絵本だった。
幼い頃から、僕たちは何度もこの絵本を読みきかされてきた。
絵本を捲ると、そこには楽しくて幸せな不思議の世界が描かれている――主人公の女の子ソフィーは、ある日、郵便受けに入っていた不思議の世界への招待状を受け取り、不思議の世界へ冒険の旅に出る。そして幾つもの不思議の世界を旅をして行きながら、楽しい幸せな時間を過ごしていく。
僕は“小さなイデアの不思議な世界”を思いだしながら、今朝の“ワイドショー”を思い出した。
今朝のような簡単なレッスンがなくても、僕たちアナムネシス・チルドレンはそのことを必要以上に知り得ていた。
それは、僕たちしか知らない話――まるで夢のような、まるで幻をつかむような話だった。
アナムネシス・チルドレンは常に現実を失う可能性と隣合わせで生活をしている。
逃げ出したいと、目を背けたいと、微睡みたいと望めば、それはすぐ隣に寄り添っている。
痛みも苦しみもないその安らぎを、永遠にも似た時間を――僕たちは容易に手に入れることができる。
アナムネシス・チルドレンが眠るとき、必ず通る夢への入り口を“エントランス”と呼ぶ。
深度五階のエントランスを抜けた先のイデアは、無限の宇宙へと繋がっている。
そこで子供たちは何にでもなることができる。
何だってすることができる。
そして、何をやってもやり直すことができる。
何度でも、何度でも。
自分が選んだ夢を、望んだ夢を見る。
自分の知らないこと、経験したことがないことはイデアを満たす集合知“ノウアスフィアが”、全てを叶え解決してくれる。
集合知とはイデアの中に沈む子供たちの知恵や知識、記憶、経験、体験、願望、欲望――それらが集合体となり、無限のリソースとなって、子供たちに創造の自由を与えてくれる。それは無限の知識を検索できる万能の“辞書”であり、思い描いた形を実現する万能の“パズルのピース”。
そして集合知に頼らなくても、曖昧な願望や欲望だけで叶えられる夢はいくらでも存在している。
レンタルビデオ屋で好きな映画やドラマをレンタルするように、お手軽に選んだ今夜のロードショーが――僕たちが今夜見る夢になる。
もちろん、自分自身を“主役”にして――監督も、脚本も、セットも、スポットライトも、ヒロインも、全てが自分一人の為に存在する、都合のいい理想の世界をイデアの中は実現してくれる。
流れる時間が現実とは違うイデアの中で、それは永遠に続く終わりなき夢だった。
だから僕たちアナムネシス・チルドレンが夢から覚める時、現実の世界に還る時、僕たちは底なしの失望や、大き過ぎる絶望を味わう。
現実の厳しさや辛さに対する耐性が子供たちにはまるで無いからだ。
イデアの中の願望の世界に浸っている時間が長ければ長いほど、現実での子供たちは、弱く、頼りなく、心許無い。
月から下りてきて別の重力にさらされたように、その重さに耐えられずに、子供たちは潰れてしまう。
イデアの中の自分は理想の自分だった。
自分の望む姿だった。
平凡であったとしても間違いなく幸せだった――それなのに、現実の自分はいったい何なんだろうか? このみっともない、みすぼらしい、なさけない小人は、いったい誰なんだろうか?
その埋めることができない果てしない距離に、夢と現実との乖離に、子供たちの多くは耐えることができない。
――“ザ・ナイトメア・ビフォア・ナイトメア”。
最初のアナムネシス・チルドレンが発見され、少しずつこの病気や、その症状が認知されていくにつれて、現実の自分を受け入れることができない子供たちが増えていった。
子供たちはいつしか心の中で叫んだ。
こんな現実ならばいらないと、こんな辛く苦しいだけの世界なら逃げ出すと。
これは本当の自分でも、真実の世界でもないと。
何故なら本当の世界は自分の中に、自分たちの見る夢の中にこそ在るのだからと。
子供たちがそこに自分がいると思うなら、子供たちがそこを真の世界だと思うのならば、それこそが子供たちにとっての自分で在り、真実の世界で在ると。
それが、“コギト”と呼ばる子供たちだった。
しかし、本来コギトと病気の症状のことを指し、大きく二つの区分に分けられていた。
一つは“昏睡状態の患者”で、イデアの中に引きこもり、現実への帰還を頑なに拒否している子供を指す。
もう一つは“重度のイデア依存者”で、現実とイデアでの生活を送りつつも、そのバランスを失っている患者を指す。
その症状は“フラッシュバック”と“反転”。
“フラッシュバック”とは、現実の中にイデアの記憶が紛れ込み、幻覚や幻聴が現れることを指し、“反転”とは今自分が現実にいるのか、イデアの中にいるのか分からなくなってしまうこと指す。
頻度や程度の差こそあれ、どちらも現実で暮らすうえでは酷い生涯となる。
そして、もともとは“昏睡状態の患者”か“重度のイデア依存者”にしか使わないはずだったコギトという言葉が――
世界中でアナムネシス・チルドレンが増え続けていく現在、差別的な表現として認知されているこの表現が――
今では多くの子供たちによって使われるようになっていた。
子供たちは自ら“コギト”と名乗り、その社会にとって不適合であるはずの“蔑称”を、まるで何かの“称号”か“勲章”のように扱うようになっていた。
恥を捨て、開き直ったかのように。
――“Cogito ergo sum”――“我思う、故に我在り”。
十七世紀の哲学者ルネ・デカルトがその著作『方法序説』の中で提唱した命題は、直ぐに子供たちの中に浸透し、信望された。
コギトという旗を掲げて、率先的に扇動する子供たちも多く存在した。子供たちの多くがまるで省察をしないまま、ただ欲望と願望のままに、その甘く熟れた毒の林檎を口にした。
子供たちを唆す蛇は悪魔などではなく、子供たち自身――鏡に映した自分だった。
フィンも間違いなくコギトだった。
重度のイデア依存者で、症状は恐らく二つとも出ている。
フラッシュバックと反転。
彼女は今、いったいどんな夢を見てているんだろう?
彼女の手を握っている間、僕は何度も彼女の夢の中に入ろうかと考えた。
アナムネシス・チルドレン同士は、イデアの中で互いの意識を通わせることができる。
電話をかけるような手軽さで、子供たちはイデアの中につくりだした他者の夢の中に介入し、介在することができる。
二人以上の子供が集まってつくりだした夢を“スフィア”といい、大勢の子供たちが夢の中で繋がっていた。
一番大きなスフィアは、かつて――深度十三階に存在した。
約三万人ともいわれるコギトたちを引き連れて、その“新世界”は存在していた。
僕は今朝のワイドショー中の――打ち上げられた魚の死骸にすら見えた、病院のベッドに横たわった昏睡状態の子供たちを思い出した。
今この目を閉じれば、僕は一瞬で眠りに落ちることができる。
この一年半の間、決して夢を見ないようにしてきた。
眠りの浅瀬に背を預けて、孤島のように浮かんでいただけの僕は、直ぐにでも都合良い夢の中に沈んでいくと確信できた。
けれど、僕は目の前にいるフィンに見向きもせずに、深い夢の底へと沈んでいくんじゃないか? そう思うと、怖くて、どうしても彼女の夢の中に入っていくことができなかった。
そういえば、“ちいさなイデアの不思議な世界”――絵本の最後はどんなだっただろう?
不思議の世界から現実世界に還った時に、ソフィーが目覚めた時に見た世界の景色は、いったいどんなだっただろう?
そんなことを考えながら、僕はフィンの手を握り続けていた。
彼女が現実に還って来ることを、僕はただ願うことしかできなかった。
そして、いつの間にか淡い暗闇の中に微睡んだ。
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