夏緒さんと、ハルキさん。
そして“夜間飛行”に出会ったのは――
私が小学六年生の頃だった。
あの頃の私は、人生で最初の壁にぶつかって一人で塞ぎ込んでいた。
私の心は、大きな壁にぶつかって粉々に潰れた卵のようになっていた。
音楽というものが嫌いになりかけて、それを手放してしまおうとしていた。
そのかわり、なにか他の特別なものを探そうとしていた。
私は毎日、自転車に乗ってあてもなく街を駆け回った。
小学六年生になった私は、両親から一人で自転車に乗って行っていい距離を伸ばしてもらったことで、今まで一人ではいけなかった場所を目指して頻繁に自転車をこぐようになっていた。
今思えば、それは一種の逃避行だったのかもしれない。
駅前の百貨店に行ったり、丘の上の図書館に行ったり、給水塔を見に行ったり、今まで一人では行ったことがない場所を訪れては、少しだけ得意な気分になっていた。
そしてあの日、私は喫茶店〝夜間飛行〟に出会った。
“夜間飛行”のある丘の上まで続く坂道は、かなり勾配のきつい坂道で、小学生の女の子が自転車で上るには体力の限りを振り絞らなければならない。
私はぜぇぜぇと息を切らしながら必死に坂を上り、そして頂上について丘の上から街を見下ろしていた。
すると、爽やかに吹く風と一緒に音楽が聞こえてきた。
私は、その音につられるように音楽のする方へ向かって行った。
まるでハーメルンの笛吹きについて行く子供みたいに。
音をたどって行くと古い木でできた建物があり、赤いペンキが塗られた扉の上には小さな看板がかかっていた。
星と月と飛行機が描かれた素敵な看板には、〝夜間飛行〟と描かれていた。
お店はまだオープンしていないみたいだった。入り口のガラス窓にはカーテンが引かれていたけど、私は中の音が気になってカーテンの隙間から中をそっと覗いてみた。
きっとお店の中では素敵なことが起きている、そんな予感があった。
お店の中では、数人の人が楽器をもって演奏していた。
ギターやピアノ、ドラム、それに大きなラッパ――
それは、私が後に演奏することになるサックスだった。
演奏している人たちはの年齢は様々だった。若い男の人から、私のお父さんくらいの年齢のおじさん、そして白い髭を生やしたおじいさんまで。みんなとても楽しそうに演奏をしていた。
そこには明確な演奏というものがなかった。
リズムに合わせてそれぞれが好き勝手に演奏する。
その演奏は楽譜というのもを放棄したアドリブの連続だったけれど、その音には調和があり素晴らしいまとまりがあった。
誰かが得意げにソロを披露すると全員がにやりと笑って、また別の誰かがソロを披露する。
それを繰り返し続ける演奏は、いつまでも終わりそうになかった。
私はカーテン隙間から一生懸命にその演奏を見つめた。
すると、ふと招かざる観客に気がついた若い男の人が、私を見つめて片目を瞑った。
ギターの弦を押さえていた手を上げて“おいで、おいで”と手招きをしてくれた。
演奏していた人たちが、一斉に私に視線を向けた。
びっくりした私は、扉から顔を離してどうしようと考えた。
悪戯がバレた子供のような気分だった。
私は自分が顔を真っ赤にしていることが分かった。
それでも私は汗ばんだ手でしっかりと扉を掴んで、その扉を開いた。
「これは、これは……ずいぶんかわいいお客様じゃないか」
大きなラッパを吹いていたおじいさんが嬉しそう言った。
「さぁ、おいでおいで。ここに座って。みなさん、注目。我々の演奏を聴きに、わざわざこんな丘の上までやってきてくれた小さなレディに敬意を評して、今から煙草とアルコールは禁止にしましょう。健全な演奏会といきましょうよ」
おじいさんが歌うように言うと、演奏家たちはくすくすと笑って煙草の火を消した。
おじいさんは煙った部屋の空気を変えるために窓を開けて換気した。
夏の日差しが入り込んで店内の輪郭を鮮明に浮かび上がらせた。
私は一目でこの喫茶店に魅了された。
「……あの、ごめんなさい。私のせいで演奏を中止させちゃって。それに……勝手に覗いたりして、ごめんなさい」
私は今にも消えそうな声であやまった。
「どうしてあやまるのかな? 誰かに聞いてもらえない演奏なんてむなしいだけだ。観客がいてこそ音楽はスイングする。僕はお嬢さんに感謝しているんだよ。これで僕たちはもっと素晴らしい演奏ができる」
おじいさんはニッコリと笑った。
それからおじいさんたちは、私のためにいくつかの曲を演奏してくれた。
その弾むような演奏は、そして楽譜のない音楽は――
“ジャズ”というものだった。
その音楽は私にとってはとても新鮮な音楽だった。
それまで、私にとっての音楽とは楽譜との睨めっこで、楽譜の再現こそが正しさだったから。
いくつかの曲を演奏し終えると、おじいさんは私のために甘いコーヒー牛乳を入れてくれた。
「あの、私……あまりお金持ってないんです」
私は心許無いお財布のことを思い出して顔を真っ赤にして言った。
おじいさんは笑い、それにつられて演奏家の人たちも笑った。
「ここはお近づきのしるしに、私がコーヒー代を出させて頂こう」
ドラムを叩いていた人がそう名乗り出た。
「抜け駆けはずるいなあ。だったら僕はコーヒーにベーグルサンドをつけてあげよう。お嬢ちゃん、〝夜間飛行〟の自家製ベーグルはとてもおいしいんだよ」
今度は別の楽器を演奏していた人が名乗り出た。すると別の人も、「自分が、自分が」と名乗りだした。まるで私にコーヒーをご馳走することを競い合っているみたいだった。
注目が集まったことで急に恥ずかしくなった私は、穴があったら入りたい気分になり、顔を赤くして俯いてしまった。
「こらこらおっさんたち、こんな小さな女の子を困らせるんて紳士の風上におけない。この子は僕が招待したゲストなんだ。ホストとしてコーヒーをご馳走する名誉はこの僕が承るべきだ。ちなみにベーグルサンドもね」
そう言ったのは私に手招きをしてくれた若い男の人だった。
長めの黒い髪の毛に、大きくな黒い瞳。
猫のように愛嬌のある顔をした、年上の異性だった。
少し時間が経つと、ベーグルサンドをつくってもってきてくれたおじいさんが、私の向かいの席に座った。トマトと目玉焼きと生ハムとレタスの入ったベーグルサンドは、ほっぺが落ちそうなほどおいしかった。
「あ、あの……ありがとうございます」
「お嬢さん、お名前は?」
「は、はい。あ……青瀬……青瀬春です。おそくなってごめんなさい」
「青瀬春さん。素敵な名前だ。青い春。毎日がわが世の春とは、実に素晴らしい」
おじいさんは歌うように言ってニッコリと笑った。
「僕の名前にもね、“ハル”がついているんだよ。春の樹と書いてハルキと」
「ハルキさん?」
「そう、僕たちはお揃いだ。ちなみにハルちゃんにコーヒーとベーグルをご馳走してくれたのは、夏緒くん。僕たちの次の季節に生きる人だね」
「夏緒さん?」
私はエレキ・ギターを演奏している人を見つめた。
夏の木漏れ日のように清々しくて眩しい人だった。
「ハルちゃんも何か楽器を演奏するのかな?」
「私……ピアノを習っていて」
「素晴らしい。どうです、僕とセッションでも?」
そう言われて私の胸は大きくときめいたけれど、少し前の大きな壁にぶつかったことを思い出して、私の気は滅入ってしまった。
そう、あの時の私は粉々に砕けた卵だったのだ。
「今は……私、ピアノ弾きたくなくて。ごめんなさい」
「けっこう。弾きたくない時に演奏する楽器ほどつまらないものはない。そんなんじゃ音はスイングできない。でも、音楽が嫌いになったわけじゃあなさそうだ?」
「はい。音楽は好きです。ここの演奏はとても好き。丘の上に上って音楽が聞こえてきたとき、すぐにこれはとても素敵な音だ、特別な音楽なんだって思ったんです」
「だったら、僕の演奏しているサックスを吹いてみないかい?」
おじいさんは大きなラッパを指して言った。
「でも私……そんな大きなラッパ吹いたことありません」
「誰にだって、初めての瞬間というのものがあるんだよ。この僕にも、初めて大きなラッパを吹いた瞬間といものが確かにあった。そんなふうには思えないかもしれないけど。あれは酷い音だった」
ハルキさんのいう通り、私には生まれた時からおじいさんがとても上手にラッパを吹いている光景しか想像できなかった。
「嫌なら無理にとは言わない。でも新しい音に出会うというのも、人生をスイングさせるためには重要なことだよ。僕だってはじめはギターを演奏していたんだけど、今ではもっぱらサックスばかりだ」
私は使い込まれていながらも、ピカピカにみがかれたサックスを見つめた。
その真鍮でできた楽器は太陽のように眩しかった。
新しい音に出会う。
その言葉が私の胸を弾ませた。
「あの私、吹いてみたいです。その……サックスを」
その日、私は新しい音に出会い、新しい人たちに出会い、新しい世界に出会った。
そして、私の短い逃避行は終わりを告げた。
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