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iの終わりに~3話

iの終わりに(完結済み) 小説

第3話 不思議の国のアリス

 

kakuhaji.hateblo.jp

 

第一話から読めます ↑

 

 猫のキーホルダーのついた鍵を錆びついた鍵穴に差し、僕はゆっくりと扉を開いた。

僕は無数にあるドアの中からこの古い図書館の扉を選んで――そして、扉を開いた。

 書庫の入り口には申し訳程度に受付が拵えられている。

受付には書庫の照明を点灯させる古臭いつまみ式のスイッチがいくつかついていたけど、僕はこの間と同様に照明を点けずに先へと進んだ。

 古い図書館はまるで迷路の中のように入り組んでいた。

複雑に並んだ本棚の海をかきわけ進むと、二階へと繋がっている螺旋階段が目の前に現れた。

この螺旋階段を上り、再びあの世界に足を踏み出すのが僕は怖かった。

 何より再び彼女に――ハックリベリー・フィンに出会うことが怖かった。

 一年前にこの古い図書館を見つけて、去年一年間を費やしてこの古い図書館を手に入れたいと思ったのは間違いなく逃避だった。

 それなのに、逃げた先で、逃げたはずのものから出会うなんて――

 僕はシヲリさんの言葉を思い出した。

――ドアというドアをためせば、そのうちの一つは夏へと繋がっている。

 

そして、それと同時に、今はどうしても思い出したくないことを思い出した。

――君が目を閉じるとき、微睡みの中に溶けるとき、僕はいつだってそこにいる、

 

 僕は頭を振って足を踏み出した。

ためした扉が、いったいどこに繋がっているのかを確かめるように。

 屋根裏部屋に頭半分だけ出してみると、そこは真っ暗だった。

 入り組んだ梁にぶら下がったガラスライトは灯っておらず、カーテンはしっかりと閉じられていた。

 手探りで絨毯の上に立ち、取り敢えずカーテンを開けようと僕は出窓のある西側の壁に向かって歩いた。おぼつかない足取りで出窓まで辿りつき、カーテンを引いて室内に光を呼び込もうとした。

 頭蓋骨だった。

 カーテンを開いてまず僕の目に飛び込んできたのは、白く、小さく、丸く、不吉な人間の頭蓋骨だった――燃えるような斜陽に焼かれ、亡くなった首の下から血を流しているように静かに佇んでいる頭蓋骨に、僕の視線は釘付けになった。

 まず初めに思い浮かんだことは、この頭蓋骨がハックルベリー・フィンなんじゃないかということだった。その丸くて白い頭蓋骨は、どことなく彼女を思い起こさせる雰囲気を持っていた。

 僕はその名前のない頭蓋骨に手を伸ばそうとしたけれど、思うように手は伸びなかった。

 僕のすぐ後ろでガタっと物音がした後、何かがこすれる音が聞こえた。

僕は体をびくりと震わせた。ごくりと唾をのみ込み、そのまま歯を食い縛って物音がした右斜め後ろを、ゆっくりと振り返った。

 並んだ家具の一つ、丸みのあるアンティーク調のクローゼットの扉――その向かって右側の扉――が開いていた。

僕は少しだけ首を前に突きだして、底なしの闇が広がっているようなクローゼットの中を恐る恐る眺めてみると、突然に真っ白な手が伸びた。

 僕は叫び、糸が切れたようにその場に尻もちをついてガタガタと震えた。

 すると、クローゼットの扉のもう片方、向かって左側の扉が開いた。

 クローゼットの奥には、小さく膝を折りたたんでちょこんと座わっているハックルベリー・フィンがいた。

 彼女は今目覚めたばかりのようなおぼろげな瞳で僕を見つめ、折りたたんだ膝と胸の間には包帯を巻いた痛々しい“兎のぬいぐるみ”が収まっていて、彼女は膝と一緒にぬいぐるみも抱えていた。

 僕は尻もちをついたまま安堵の息をついた。

ハックルベリー・フィン? 良かった。心臓が止まるかと思ったよ」

 彼女は意味が分からないと言いたげに首を傾げた。

「なんだか、驚いてばかりね」

「いや、あの頭蓋骨を見た後に、クローゼットの扉が勝手に開いたんじゃ、驚くなってほうが無理があるよ」

「ああ、あれ? かわいいかなと思って」

「なかなかいい趣味してるね “おお、哀れなヨリック”――なんてできそうだしね」

「何それ?」

「『ハムレット』だよ。シェイクスピアの。知らない?」

「知らない」

「そっか」

 まるで興味なさそうに「知らない」と言われて、僕は意気消沈した。

彼女と顔を合わせてから一分と立たずに話題がなくなってしまった。

何を喋ったらいいのか分からなかった。そもそも、ほとんど初対面の相手に対してシェイクスピアの戯曲を引用してみるというのはむず痒く、恥ずかしい行為だと思った。家に帰ったら布団をかぶって、枕に顔を埋めてしまいそうなくらいに。

 どうしよう、どうしようと考えれば考えるほど、思考は空回るばかり、そのまま車輪が外れてどこかに転がって行きそうだった。

「あ、あの、その――」

 僕は咄嗟に彼女が大事そうに抱えている兎のぬいぐるみを指した。

「その、兎のぬいぐるみも、かわいいね」

「これ?」

 彼女は兎の人形の片腕を持ってひょいと掲げてみせた。

 黒色の兎の人形はところどこに白い包帯が巻かれていた。それに片方の耳は取れかかり、右目には眼帯という、とても奇抜な格好をしていた。まるで誰かの痛みを肩代わりしているように、傷だらけでボロボロだった。

「ボコッとラビットっていうの。私がまだ小さい時にもらったんだけど、ぜんぜん覚えていないの。でも、私この人形大嫌い」

 彼女はボコッとラビットの人形をぽいと投げ捨ててしまった。

 クローゼットの中から屋根裏部屋の絨毯の上に転がったボコッとラビットは、片方の目で僕を眺めていた。

 早くも二度目の墓穴を掘ったような気がして、僕は更に委縮してしまった。

何を口にしていいのか分からなかった。

「あなた一人?」

「うん」

「この間この書庫の管理を任されたって言ってたけど、そのことでここに来たの?」

「そ、そうなんだ」

 僕は彼女の助け舟に勢いよく乗ってそう呟いた。

「これから少しずつこの古い図書館に顔を出して、本の整理とか、図書館の掃除とかをしていきたいんだ。それに今年中に一度曝書もしなくちゃいけないし」

「曝書って?」

 彼女は聞きなれない言葉に首を傾げた。

「曝書っていうのは、なんて言えばいいんだろう? もともとは本を日干しにしたり、通風して防虫をすることをいうんだ。今では蔵書の点検なんかをすることを現す言葉で、一体この古い図書館にどれだけの本が、何の本があるのかを確認することなんだよ。在庫整理みたない感じかな?」

「じゃあ私がここにいたら、迷惑? それとも、この場所から出て行くように言うために、あなたはここに来たの?」

 彼女は抑揚のない感情の籠っていない声音で尋ねた。

表情も無表情――真っ白で、そこには何の感情も浮かび上がってはいなかった。

「いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。それに、君が――いや、ハックルベリー・フィンが、この屋根裏部屋にいたってことは誰にも、司書さんにも言ってないから安心しなよ」

 そこまで言って、僕は何となく分かってしまった。

「もしかして、だからクローゼットの中に隠れていたの?」

 僕の言葉に彼女は「分からない」と首を横に振ってみせた。

「どうしてだか分からないんだけど、この書庫に誰かが――あなたが入って来て思わずこの中に入っちゃったの。こんなところに隠れても何もならないって分かっていたんだけど、それでも――どうしてかしら?」

「僕もそういうことたまにあるよ。そういう時ってさ、たいてい意味なんてないんだよ。どうしようもなくて、そういうことをしちゃうんだ――クローゼットの中に隠れちゃうんだよ」

「何だか、とっても子供っぽくてうんざりしちゃう」

 こんな時、僕たち子供たちは、どうしたらいいのかが分からない――どうしようもなくて、どうしたらいいか分からなくて、隠れてしまう、逃げ出してしまう、微睡んでしまう、沈み込んでしまう。その気持ちは痛いほどに理解できた。

ハックルベリー・フィンはここを好きに使えばいいよ。僕は誰かに告げ口したりしないからさ」

「どうして? あなた、きっと一人でここを使いたくてわざわざこの書庫の管理なんてやろうと思ったんじゃないの?」

 こんな人気のない辺鄙な場所に目をつけた者どうし、多分考えていることは同じなんだなと思った。

「だからってさ、それは誰かを追い出していい理由にはならないと思うんだ。たとえハックルベリー・フィンが少しズルをしてこの場所を先に手に入れて、後から僕が正当な手続きをもってこの場所を与えられたとしてもさ」

 鍵を持っていない彼女がこの古い図書館にすんなりと入っている理由は、まぁ少しばかり犯罪めいたやり方しか考えられないんだけど、それは僕にとってはどうでもよかった。

 僕だってあの入学式の日にシヲリさんに出会わなければ、似たような方法をとっていたと思う。

「ねぇ、やっぱりハックルベリー・フィンって長いし、呼びづらいと思うんだ。ハックっていうのも女の子っぽくないし――君のこと、フィンって呼んでもいいかな?」

 突然の提案に、女の子はどう返事をしていいのか分からなそうだった。

「フィン? フィン、フィン、フィン――」

 彼女は何度もそう呟いた。

その言葉を手に取って、その肌触りを確かめているように。

「別に、かまわないけど」

「よかった。じゃあ、フィン、一応これからよろしくね。僕もなるべくフィンに干渉しないようにするし、君がここで何をしているとかは詮索しないからさ。僕は僕で勝手にこの書庫を使わせてもらうよ」

 フィンは何も言葉を返さずにぼんやりと僕を眺めているだけなので、僕と彼女との間には不自然な沈黙が生まれてしまった。

 僕は何とかそれを埋めようと慌てて当たりを見回した。

「それにしても、この屋根裏部屋すごいね? 僕は“ロージャ”が間借りしていたアパートか、“アルカーシャ”が暮らしていた墓穴みたいな屋根裏部屋って聞いていたんだけどさ。まるで“不思議の国”みたいだよ」

「“ロージャ”と“アルカーシャ”って?」

「ええっと? どっちもドストエフスキーって小説家が書いた物語に出てくる主人公だよ。“ロージャ”は『罪と罰』、“アルカーシャ”は『未成年』。まぁ、二人ともろくでもない奴なんだけどさ」

ドストエフスキー? おもしろいの?」

「何が書いてあるのか皆目分からないんだけどさ――理解するほどの知識が僕にないっていう意味でね。複雑な物語なんだ。それでも物語のどこかに自分の姿を見つけられる。読み終わった後に、何だかすごいものを読んだんだなって実感させてくれる物語で、何だかすごいんだよ」

 僕はまさに興奮冷めやらぬと言った調子でそう言い終えた後、しまったと思った。

いきなり“ドストエフスキー”なんて、どこの馬の骨かも分からない小説家の名前を出して何が面白いんだと後悔した。

「ふーん、なんだかつまらなそう。私そういうお話ってとてもがっかりしちゃうな。だって、お話の中に自分の姿がちらりとでも見えるなんて、とてもうんざりしちゃいそうだもの」

 案の定の答えが返って来て、僕はやっぱり意気消沈した。

 ドストエフスキーの話題はシベリアの流刑地送りにした。

「でも、『不思議の国のアリス』は好き」

「僕もだよ。ここに初めて足を踏み入れた時、もしかしたら“マッド・ティーパーティ”に招待されたんじゃないかって思ったくらいなんだ。すごく高価そうなティーセットがあるし、それにあの机とか椅子とかこのクローゼットも、全部フィンが一人でここに運んだの?」

 僕は部屋の中の家具を指さして言った――天井からぶら下がったガラスランプ、赤い絨毯の上のクローゼットや本棚、ヴィクトリア朝っぽい机と椅子、背もたれの高いシングルのソファー、机の上のティーセット。

 フィンはゆっくりと身を乗り出して、這うようにしてクローゼットの中から姿を現した。まるで井戸の底から這って出るみたいで、それは傍目にはホラーな光景だった。

「あうっ」

 フィンはクローゼットから出ようと赤い絨毯に手を伸ばした。その時に目測を誤ったのか、思わず身を乗り出し過ぎたのか、彼女はつんのめってクローゼットの中から転げ落ちてしまった。

「大丈夫?」

 大した高さではなかったけど、フィンはほぼ一回転して見事に尻もちをついた。

その隣には似たような恰好で転がっているボコッとラビットがいた。

彼女は何事もなかったかのように澄ました顔のままで、それでも不平不満を申し立てるように、僕をただじっと見つめていた。

 その後で、ゆっくりと屋根裏部屋を眺めた。

「今、あなたが言ったことだけど――ここにある物の全て、あなたの目にはちゃんと映っているのね? だったらここにある物の全てはちゃんと実在していて、たぶん私が運んできたんだと思う。よく覚えていないんだけれど。それはそれでよかったわ」

 僕の目に映っているのならここにある物は実在している? 

 じゃあ、彼女の目にはこれが実在しているのかどうか分からない?

「もしかして、フィンは“コギト”なの?」

 僕はおそるおそる扉を開くように尋ねた。

 その扉がどこに繋がっているのかを確信していながら。

「あなたは不思議なことを聞くのね。私、そういう質問って本当にうんざりしちゃうの。だって、私たちの中で“コギト”じゃない子供なんているのかしら?」

 僕はそれ以上、言葉を返すことができなかった。

「ねぇ、私が『不思議の国のアリス』を好き理由はね、あれが全て夢の中の出来事だからなの。目が覚めたら、そこで全て終わってしまうから、それがとても素敵だなって思うの」

 その後に続いた言葉は――

 

 ――僕が足をつけている現実を粉々に砕いてしまい、僕を冷たい暗闇の中に突き落とすように響いた。

 

「早く、この夢も終わってしまえばいいのに」

 

 

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