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iの終わりに~28話

第28話 小さなイデアの不思議な世界

 

kakuhaji.hateblo.jp

 第一話はこちらから読めます ↑

 

 ハックルベリー・フィンと再会したのは、狭くて小さい部屋の中だった。

まるで棺桶にでも押し込められたような薄暗い部屋の中で、彼女は眠っていた。静かに眠りについているその姿は、お伽噺のお姫様のようにも、祭壇に捧げられた供物のように見えた。

 そして出会った時と同じように、その表情からは何も読み取れず、その眠りは――心地良さそうでも、安からでもなく、苦しんでもいなかった。

完全に色を失った寝顔だった。

 寝息一つ聞こえない、まるで彼女の周りだけ時間を切り取ってしまったような、そんな静かすぎる眠りだった。

 ハックルベリー・フィンのそこはかとない胸のふくらみの上で組まれた手の中から、猫の尻尾が飛び出していた。

“古い図書館の鍵”につけられたキーホルダーだった。

それは僕のブレザー制服の中に入れっぱなしにしておいたものだった。

 彼女は古い図書館の鍵を握りしめたまま眠りについていた。

まるでその鍵に何かを願って、祈りを捧げているみたいだった。

 きっと彼女も探していたんだ――

 

 ――“夏への扉”を。

 

「さて、まずは状況を整理し確認をしておこう。何故、我々がわざわざ役立たずの兎君をこの場所に連れてきたのか。そして黒兎に合わせて、懇切丁寧に状況を説明するのかということも含めてね」

 部屋の隅で僕とハックルベリー・フィンの再会を見守っていた国会議員が、僕たちに近付いて口を開いた。

その手には僕の良く知っている“文庫本”が握られていた。

「あんたたちは失敗したんだ。“ロンドン橋計画”は失敗だった。彼女を夢の中に沈ませても、事態は何一つ解決しなかった。むしろ悪くなった。だから、焦って僕をここに連れて来たんだろう?」

 僕は国会議員の言葉を先回りして言った。

 国会議員が笑うと、口の端にできた赤い染みがゆっくりと広がった。滴るそれを長い舌で味わうように舐めた。ひどく気持ちが悪かった。

「確かに。ある意味では君の言っていることが正しい。だけど、実を言うと失敗という訳でもないんだよ。むしろ、ある側面を見れば成功と言えるだろう。幾分か倫理的には破綻していてもね」

 国会議員は両手を道化のように広げてみせた。

「我々は当初――“ノクト”を患っている黒兎をイデアの中に沈ませれば、全ての夢が汚染され悪夢しか見ることができなくなった子供たちが慌てて戸を叩いたように現実に還って来るだろうと予測をつけた。しかし、黒兎がイデアの中に沈んでも子供たちは“誰一人”、夢の中から現実に還って来なかった。我々が監視用に沈ませていた“ダイバー”も、もれなく全員」

 国会議員はやれやれと両手を仰いだ。

「正直なところ、今現在イデアの中で何が起こっているのか皆目分からないんだよ。後を追わせたダイバーも誰一人戻って来ないのだから、お手上げとしか言いようがない」

「誰一人、全員還ってこない? それって――」

「その通りだよ。言葉の現す意味通り、“誰一人”だ。彼女が眠ってから誰一人現実に還ってこない。深度の浅い眠りは例外だが、この急性の昏睡はものすごい勢いで世界中の子供たちに広がっている。まるで蝗の群れが田畑を食い尽くしていくようにね。そして今現在、億単位の子供たちが昏睡状態に陥っている。直に報道規制も解かれるだろう。まさに、この世の黙示録じゃあないか? やれやれ、実に滑稽だ。いや、素晴らしいというべきか」

 世界中の子供たちが、億単位でイデアの中から還ってこない? 

それも彼女が眠りについてから? 

 国会議員は僕を見つめながらけらけらと笑っている。体中の関節をおかしな方向に曲げて、ぐにゃりぐにゃりと体を揺らしている。不気味な踊りを踊っているみたいだった。

「これの何が面白いんだ? こんなことが素晴らしいなんてどうかしてる。これじゃあ――」

 

 ――本当に、“世界の関節が外れれしまった”みたいだった。

 

「いやいや、別に面白がってはいないさ。国家存続の危機、引いては世界の破滅に私としては深く憂慮している。だが、私が“ある側面では成功している”と語ったのは、今話したこととは別の現象が子供たちに起きているからだ」

「別の現象? これ以上、何が――」

 国会議員は僕の戸惑いに殊更愉快そうに、不気味な踊りを踊ってみせた。全ての指が関節ごとにグネグネと動き回り、膝がかくかくと震えて、足首が九十度後ろに回っていた。

「昏睡状態の子供たちが衰弱し始めているんだよ。何か得体の知れないものに急速に生気を奪われているみたいにね。こちらの投薬や点滴などの治療では到底追いつかない。子供たちを受け入れるのに万全の体制の維持している医療機関でも、このままでは一週間ともたせられないだろう。だから、ただ何も知らずに眠っている子供の場合だと、そろそろ死者が出てもおかしくはない」

 そこまで話を聞いて、僕はようやくこの国会議員が恍惚としていることに――この状況に快楽を感じていることに気がついた。

ジャバウォックは心の底からこの状況を楽しみ、興奮していた。

 こんな状況でしか、この獣は興奮できないんだと僕は思った。

「全く、愉快過ぎてどうにかなってしまいそうだ。少女はただ怖い夢を見ることなく静かに眠りの底に沈みたいと願った。そこに安らぎがあってほしいと祈った。それだけだった。そんな少女の願いや祈りが全ての子供を死へと追いやり、虐殺していくなんて――どうやら、我々はイデアの中に劇薬を流し込んでしまったみたいだ。呪いをかけたといってもいい」

 僕は混乱していたけど、その話を自然に受け入れることができた。

理解できていないということが理解できた。その事が分かると、とても冷静でいられた。

 この底なしの狂気をぶちまけた黒い獣に対して――僕はもう怒りも、憎しみも、悲しみも感じることはなかった。

不思議な気持ちだった。

「一体、あなたはなにが気に入らないというんだろう? どうして、そんなにもこの世界に対して、子供たちに対して憎しみを抱くことができるんだろう?」

 静かに尋ねた。

「私がこの世界を気に入らない? 私がこの世界を憎んでいる? まさか? 私は誰よりもこの世界を愛しているんだよ。おお、この世界はなんと素晴らしいんだ」

 国会議員は天に召されるような格好で叫んだ。

「そして、それと同時に誰よりも、この世界を心底どうでもいいと感じているんだよ。これは程度の問題なんだよ。国会議員としての、公の私は、献身的に国家に尽くし、国民の権利と健康と財産を守り、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意している。だが、私個人までもがそう考えているとは限らない。個として私は、どうしようもないほどのニヒリストで、どうしようもないほどに快楽主義者だ。楽しいことが、淫らなことが、堕落したことが大好きなんだよ。だが同時に私はそれを深く忌み嫌い、世の中からそれらの全てを排除したいとも思っている。法という手段をもってね」

 まるで罪を告白する告解室の中にいるように語った国会議員は、しかし微塵にも罪を告白しているなんて考えてはいなかった。

自分自身の恥部を曝け出していることに快楽を見出してさえいた。

 国会議員は手に持っていた文庫本を開いた。

 

 ――私はなにか善を行おうとする希望を持ち、そこに悦びを感ずることもできる。だが同時に、悪を行いたいとも思い、そこに悦びを覚えることができる。

 

「まさにこれだよ。人間とはすべてこの言葉一つで現すことができる。“ドストエフスキー”。まるでろくでなし、まるで社会不適合な小説家でさえ、こんな単純な真理に気がつくことができるのだから、やはり小説とは素晴らしいものだな。いや、底抜けに下らないものだと言っていいだろう」

 その文庫本は、僕が古い図書館で読んでた『悪霊』だった。

 ジャバウォックは何かにとり憑かれているように見えた。

豚の中に何か悪いものが入り込んだみたいに。

「さて、大方の状況は説明し終えた」

 国会議員は文庫本をペラペラと捲った後、音を立てて閉じた。

恍惚と快楽を断ち切るように。

「要するに私個人としては、この状況を大変愉快に思い、社会に不適合な子供たちなど、もれなく安らかに死んでしまえばいいと思っている。だが国会議員としてのは私は、この状況を打開して国家の危機を打破しなければと考えているわけだよ。このような危機に、私の手腕を発揮しなればならないとね。そこで君だ――」

 国会議員は僕の顔を覗き込んだ。底なしの深淵が僕を覗き込み、その奥にいる怪物が僕を見つめていた。

 僕はとても静かな気持ちにでその怪物と対峙した。

 もうこの怪物を恐れる気持ちは僕の中に存在しなかった。

「君にイデアの中に沈んでもらい、イデアの状況を確認してもらいたい。できることなら、この状況を好転させてもらいたいが、そこまでのことを我々は君に望んではいない。捜査官は君を“希望”だと言ったが、私はそうは思わない。君なんて蝋燭の火よりも頼りない、燻った篝火に過ぎない。拒否したければ拒否してくれて構わないよ。初めから期待などしていないが、君は拒否しないだろう? どのみち、君が眠りにつけば、そこは悪夢の井戸だ。ただ君が我々に協力してくれるというのならば、我々は最大限の助力を惜しまない。万全の態勢で君を“イデア”の中に――“この世の全ての悪夢”に送りだそう」

 国会議員はドアのノブをゆっくりと回し、、僕に悪夢への扉を開いて見せた。

 だけど、その扉は僕にとって悪夢への扉じゃない。

 彼女へ繋がっている、ハックルベリー・フィンへの扉だった。

「あなたたちの助けなんていらない」

 僕はきっぱりと国会議員の申し出を断った。

「だけど、一つだけ約束してほしい。僕たちが目を覚ましたら、この現実に還ってきたら――僕たちはこれ以上、あなたたちと関わり合いにはならない。あなたたちのつまらない“椅子取りゲーム”なんかには参加しない。だから、僕たちの前からいなくなってくれ」

 ジャバウォックにぽっかりと開いた二つの穴が、僕を真っ直ぐに見据えていた。その表情は虚無だった。

 からっぽで、からんどうだった。

母のいない部屋みたいに。

「“ちいさなイデアの不思議な世界”――君も読んだことがあるだろう? ソフィーが不思議の世界で知り合った男の子と二人で現実へと還ってきた時、二人が見た世界の景色を、君は覚えているかな?」

 突然、そんなことを尋ねられた。

 僕はその結末を思い出すことができなかった。

「いいだろう。もしも、君たちが無事に“二人”で現実に還ってきたときは、君の望む全てを約束しよう。再び目覚めた時、そこは君にとっての“新世界”だ。それでは――おやすみ」

 ジャバウォックは部屋の灯りを消すように言った。

 僕は眠りについた。

三年間の昏睡状態から目覚めてから初めて――再び夢の中へ、イデアの中へ沈んだ。

 ここに、僕は還ってきた。

 

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