「男の子って、本当に馬鹿よね」
僕の顔を覗き込みながら、濡れたタオルを唇に当ててくれたシヲリさんが困ったように言った。だけど、とても嬉しそうな顔をしていた。
何となく誇らしげな気持ちになっている自分がいたけれど、そんな高ぶる気持ちに反して、まだ僕の手と足は震えていた。振るった拳の行き場が見当たらなかった。暴力というものを行使した自分の気持ちを落ち着ける場所が見つからなかった。
できることならば、それは永遠に見つからないでほしいと思った。
シヲリさんは優しく微笑み、そして僕を胸の中に引きこんだ。
僕をあの発電プラントまで迎えに来てくれた時と同じように――やっぱり、柔らかくて、暖かかった。
僕は、今この瞬間に目の前にいるシヲリさんが、僕の知っているシヲリさんなんだと思った。そこにどれだけの嘘や、偽りや、インチキがあったとしても――今、僕の目の前に立って、僕を抱きしめてくれているシヲリさんが、僕の知っているシヲリさんだ。
「よく戻ってきたわね。ううん、君は戻ってくると思ってた。君は手を伸ばす。たとえ伸ばした先にあるものをつかむことができなくても。あの入学式の日と同じように」
僕とシヲリさんは思い出していた。
僕とシヲリさんが出会った、あの始業式の日を。
古い図書館の前で立ち尽くしている僕にシヲリさんは声をかけてくれた。
僕は出会ったばかりのシヲリさんに“この古い図書館の管理を任せて欲しい”と頼み込んだ。
「はじめはね、適当なことを言ってあの古い図書館のことは諦めてもらおうと思っていたの。理不尽にこき使えば直ぐに諦めるだろうって。見るからにやる気なさそうだったし、根性もなさそうだったから。でも、諦めなかった」
僕はシヲリさんとの一年間を思い出していた。
今思い返してみれば、それはとても充実した時間だった。
今までどうして気がつけなかったんだろうって、不思議に思ってしまうほどに。
「これでも、君の読書量に付き合うのは結構苦労したのよ。本なんてあまり読んでこなかったから、いちいち君の読書カードをチェックして、最低でも話についていけるようにはしていたんだから」
最後のほうをシヲリさんは愚痴っぽく言った。
そして続きをゆっくりと話し始めた。
「私にはね、弟がいたの。弟も君と同じように物語が好きだった。そしてアナムネシス・チルドレンで――コギトだった。生まれつきに体が弱かった弟は、夢の中から還って来ることなく死んでしまった。私がこの仕事をしているのも、そのことが少なからず影響していると思う。だからかしら? 私は君に弟を重ねていたのかもしれない」
僕は夢の中から還ってこなかったシヲリさんの弟のことを思った。
彼のことを、僕は知っているような気がした。
まるで僕自身のように。
きっと僕たちは、みんな誰かに似ているんだと思った。子供たちは、みんなどこか似ていて――似ているからこそ、どこか悲しくて目を背けたくなるんだと。
「あなたたちが二人で施設を抜けだす時に、私は見て見ぬふりをした。そして、少しだけ背中を押した」
「もしかして、あの赤いスクーター?」
「そうよー、私の可愛い“vespa180ss”ちゃん。あんなところに路上駐車して、後日しっかりと駐禁とられてたんだから」
ふざけた調子でそう言いながら、シヲリさんは僕を胸から解放した。
僕の肩にそっと両手を置いて、僕の顔を再び覗き込んだ彼女の表情は、とても真剣で、とても強い眼差しをしていた。
これが大人の女性の、姉の顔なんだなって思った。
「絶対に還って来なさい。現実に。二人で一緒に」
一言一言を僕の胸に刻み付けるように言った。
その言葉を胸に刻み付けて、僕は大きく頷いた。
現実に言葉を刻むように僕は口にした――
――二人で一緒に。
「現実に還ってくる? 意味が分からない。僕には、まるで理解できない」
スナークが声を荒げて叫んだ。
先ほどまで魂の抜けた人形のようになっていた少年には再び箍が外れたような、芝居ががった調子が戻り始めていた。
僕たちを唖然と見つめている美しい獣は、その瞳の奥に妖しげな蝋燭の灯を――滑稽なまでの偉大さや、華麗さを取り戻していた。
「あなたは選ばれた存在なんです。このくそ下らない世界を捨てて、新しい世界を羽ばたける子供なんです。あなたこそが“コギト”と定義されるべき子供なんです。あなたは誰よりも素晴らしい“招待状”を送られた。それなのに、一体、どうして――こんなくそ下らない世界にこだわるんですか?」
スナークの双眸は心の底から本気で分からないと、理解できないと、僕に尋ね訴えかけていた。
僕はスナークと視線を交錯させた。
その一瞬の逡巡で、僕たちはお互いの多くを理解した。
少年の表情は落ち着いた。浮かべた微笑はとても穏やかだった。
その背に背負っていた嵐が過ぎ去ったみたいに。
「いいです。これ以上、あなたと言葉を交わそうとは思いません」
スナークは諦めたようにゆっくりと首を横に振った。そして、無邪気に笑ってみせた。幼い子供みたいに等身大の笑みを浮かべた。
「先ほどの一発はとても愉快で痛快でした。スカッとしましたよ。あんなやり方で大人に目にものを見せてやれるなんて、僕には考え付きもしなかった。そして、とても嬉しかった。あの一発は、全ての子供たちの一発だと思うことにします。ありがとうございます」
先ほどまで少年は途方に暮れていた。
黒い獣に負わされた傷に自分自身を見失っていた。
だけど、今再び火の灯った瞳には一点の曇りもなかった。
そして、どことなく少年の表情が大人びて見えた。
いつか羽を広げるその瞬間を予感させるような、そんな大人びかただった。
僕たちは今でも、それぞれの考え方や行動の極北にいた。対岸に立ち向かい合っていた。
だけど、僕たちにとってそれは問題じゃなかった。
ようやく僕はこの純粋な少年に親しみや好意のようなものを感じることができた。
「スナーク、殴るよりも殴られたほうが何倍いいと思うよ。誰かを殴るってものすごく嫌な気持ちになる。殴ってみるまで分からないんだけどね。それでも殴らなきゃいけない時は、誰かのために殴るといいと思う。そういう時は、思いっきり拳を振るうんだ」
「殴るよりも殴られたほうが何倍もいい。誰かの為に殴る。その時は思いっきり拳を振るう」
スナークは僕の言葉を自分の中のどこかに落ち着けるみたいに、ゆっくりと繰り返した。
「別に僕は子供たちを代表して殴ったわけじゃない。僕は、僕がそうするべきだと思ったからそうしたんだ。それだけだよ」
僕は肩を竦めて続けた。
スナークは僕の言葉の続きを待っていた。
「スナーク、僕たちは確かに新しい世代なのかもしれない。複雑にこんがらがった、ある意味で不幸な子供たちなのかもしれない。でも僕は自分が不幸だとは思わない。君だってそうだよ。僕たち子供たちは、みんな満たされなくて、分かってもらえなくて、苛立っていて――どこか不幸なんだ。そういうものなんだよ。だけど、そのことに腹を立てて、駄々をこねて、わがままを言って、八つ当たりをしたってしょうがないじゃないか? 僕は世界を否定したくなんかない。新しい世界に飛び出したいわけでもない。ただ誰かが勝手に送りつけてきたような“招待状”はいらないってだけなんだ。それが神なんていうインチキの権化みたいな奴の場合には、なおさらね。僕は謹んでそれをお返しする。僕は小さな椅子が欲しいだけなんだ」
僕はこれ以上この新しい友人にかける言葉はないと、振り返って足を進めた。
僕はこの足を誰かの元に向かうために進ませる。
もう終末を告げる針の音は聞こえなかった。
「老いた兎。せいぜい神によろしく言って一発くれてやってください。だけど僕の考えは変わりません。僕は子供たちの神話を記し続けます」
スナークはまるで変わることなく、そう宣言した。
「あなたが一日に千人の子供を現実に還すというなら、僕は一日に千五百人の子供を夢の中に沈めましょう。また、お会いしましょう。この世界の終末で。それまで――この神話前夜を楽しんでください。おやすみなさい。よい眠りを、そして幸せな夢を」
僕はその言葉には何も返さなかった。
彼らは彼らの好きなようにやればいい。
そんな椅子取りゲームに僕は参加しない。
ただ、小さな椅子があればいいんだ。
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