iの終わりに~24話

第24話 夏への扉

 

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 ぼんやりとカレンダーを眺めると七日間が過ぎていた。

 ハックルベリー・フィンと冒険をしたあの日から。

 僕は少しずつ彼女との出来事を整理し始めていた――以前、三年間の昏睡状態から回復した時と同じように。答えの出ないもの、受け入れることができないもの、理解することができないもの、自分の中のどこに落ち着けていいのか分からないものを少しずつ整理していた。いたずらに撮った写真をアルバムの中に収めるように。

そうやって少しずつ彼女との冒険を、過去という、思い出という箱の中につめていった。

 僕は何もすることができずに、何もなすことができずに現実に還ってきた。

もう夢を見る必要はなかった。

現実の中で前を向いて歩いて行けばいいんだと、自分に言い聞かせた。

 それなのに、こんなにもやるせないのは何故だろう? 

 たぶん、咲いたばかりの桜の花の多くが散ってしまったせいだ。

 また、ぼんやりとカレンダーを眺めた。

 やっぱり、七日間が過ぎていた。

「お兄ちゃん、お茶が入ったよー」

 妹が懐かしい香りと一緒にテーブルについた。

 あの発電プラントからシヲリさんに連れられて戻ってきた僕を見て、妹は激しく激昂して泣きじゃくった。そして何度も何度も僕を叩いた――「バカ、バカ、バカ」。優しく握られた、勇気のこもった拳で――何度も僕のことを叩いた。

 それから僕と口もきいてくれなかった妹が、少しずつだけど僕と会話をしてくれるようになった。

何となく冬が終わり、雪が解けて春を迎える――そんなことに似ているような気がした。

 あの“ナーサリー”と呼ばれた発電プラントで永遠の冬を感じて、あの桜の蕾が開くことはないだろうと思っていたはずなのに、今ではあの場所にもいずれ春が来て花が咲くんだろうなと思っている自分がいた。

そして、散っていくんだと――

 やっぱり、やるせなかった。

「今日ね、紅茶をつくってみたの」

 ガラスのティーポットに入った“リプトン”のティーバッグを見て、僕は何となく味気なさを感じた。

 もう、過去の話だった。

「紅茶なんてめずらしいね。どうしたの?」

「この間、受験勉強の息抜きにみんなで行った喫茶店の紅茶がおいしくて、スーパーで安売りしてたから買っちゃった」

 最初の一口だけ違和感を覚えた紅茶の味に僕は直ぐに慣れた。

そしてもう一杯紅茶を飲みはじめる頃には、もう僕の知っている紅茶の味はリプトンになっていた。

リプトンはとてもおいしかった。

温かくて、優しい味がした。

 こうやって少しずつ忘れていくんだろうと思った。

少しずつ新しいものを知り、新しいものと出会い、新たしい出来事に流されて僕は色々なことを――ハックルベリー・フィンを忘れていくんだろうと思った。

 もっと多くのことも一緒に、大切なこともそうじゃないことも含めて。

「ねぇ、お兄ちゃん、帰ってきてから元気ないね」

 僕はどんな言葉を返したらいいのか分からなかった。

「今のお兄ちゃん、なんだか一年半前みたい。長い夢から目を覚まして、現実に戻ってきた、あの時みたい。あの時だって、そんな感じでいつもぼおっとしてた。なんだか、ここにいないみたいだよ。お兄ちゃんはどこにいるの?」

 心配をかけていると思った。また悲しませていると。

「そんなことないよ。僕はここにいる。いろいろあってちょっと疲ただけだよ。それより、今日の夜何食べようか? 好きなものつくるよ」

 嫌な沈黙が流れた――

「ねぇ、いつまで、そうやってごまかし続けるの? いつまで、そうやって目を背けているつもりなの? いつまで、夢の中にいるつもりなの?」

 その声はとても切実で、今にもはち切れてしまいそうだった。

僕の胸をこれ以上ないくらいに強くしめつけて離さなかった。

 僕はまだ夢の中にいるのだろうか? 

まだ現実に還って来ていないのだろうか? 

まるで分からなかった。

「私はまだ子供だから、イデアとかコギトとかよく分からないよ。お兄ちゃんの抱えているものを私は分かってあげられない。でもね、私だって同じなんだよ。私もね、学校の友達と創った小さなスフィアを――“お部屋”を持ってるの。そこで私たちは受験勉強の息抜きに体を動かしたり、下らないお喋りをしたりするんだよ。私だって、お兄ちゃんと同じだよ。みんな、同じ。みんなそれを受け入れて、それと向きあって、折り合いをつけてる」

 ぽろぽろと涙がこぼれた。

「私ね、お兄ちゃんがこの家に戻ってきて、少しずつ現実と向き合いはじめて、すごく嬉しかった。普通に学校に通って、普通に学校から帰ってくることが、本当に嬉しかった。図書館司書のアシスタントをしてみたり、初めはぜんぜん上手じゃなかった料理が少しずつ上手になっていくのが、すごく嬉しかった」

 妹の言葉はどこまでも優しかった。そして、どこまでも重たかった。

 僕が料理をしはじめたのは、現実で何かをつくることがとても難しいことだと知ったからだった。

夢の中と違って少しずつ上達していく喜びが、そこにはあったからだった。

「私ね、お兄ちゃんの入院している病院に、ほとんど毎日顔を出してたんだよ。毎日お兄ちゃんの顔を見て、お兄ちゃんの体を拭いてあげてるとね、分かるの。少しずつお兄ちゃんが弱っていくのが。骨がういてきて、筋肉がぶよになって、体中から生気みたいなのが抜けて行くの。風船が少しずつしぼんでいくみたいに。何だかお兄ちゃんが少しずつ別の場所に連れて行かれちゃうみたいで、すごく怖かった」

 僕は拳を握っていた。とても強く。不甲斐無い自分に向けて。

「でも、そんな顔をしているなら眠っている時と何も変わらないんだよ。そんな“どこかに行っちゃった”みたいな顔をして私を不安させるなら、心配させるなら――眠っている時と何も変わらない。ううん、言葉が通じて話ができる分、よけいにひどいよ。言葉で伝えようとしなきゃ何も伝わらないんだよ、私たちは。だから、お兄ちゃん、ごまかさないでよ。目を背けないでよ――」

 何も分からないと言った妹は――全てを理解しているみたいだった。

少なくとも僕なんかよりもずっと多くのことを理解して、向き合って、受け入れて、折り合いをつけていた。僕のことを僕以上に理解していた。

 きっと背中を押してくれているんだと思った。

なかなか足を踏み出さない僕に。

 カレンダーを見つめた。

七日間が過ぎていた。

 ハックルベリー・フィンと冒険に出たあの日から。

 七日あれば世界を創ることも、壊すこともできる。

 じゃあ、八日目に僕は何をするんだろう? 

 そうじゃなくて、何をしたいんだろうって自分に尋ねた。

 僕は休みたくないと思った。

 全てを終わらせたくないと、夢の終わりにしたくないと、もう一度強く思った。

 僕は休まない。ただしく手と足をつかうんだ。

「ありがとう、ハルカ」

 妹の涙はもう止まっていた。

「うん。何だか、久しぶりにお兄ちゃんが名前を呼んでくれた気がする。嬉しい」

 ハルカはにっこりと笑った。

その笑顔を、僕は忘れないだろうと思った。

「僕、行くよ」

「うん」

 頷いた後で、ハルカは苦しそうに喘いだ。

「だけど、必ず帰ってきてね」

 ハルカは不安そうに、念を押すように言った。その表情はずいぶん大人びて見えた。もう子供じゃないんだな――妹のハルカが、ずいぶんと遠くに見えた。

「私、せっかちだし、待ち合わせに遅れてくる男の子は大嫌いだから、そんなに長く待てないんだからね。女の子を待たせるっていうのは最低なんだからね。だから、ウェディングドレスを着るまでには絶対戻って来てよね」

「ああ、花婿を一発ぶんなぐってやる」

「うん。お願いだから一発だけ殴られてってお願いしておくね」

「ありがとう」

 僕は部屋を飛び出した。

 自転車は壊れてスクラップになってしまっていたので、学校までは走った。

 いろいろなものを振り切るように、断ち切っていくように、とにかく全速力で走った。

坂道を一気に駆け上がって、一旦そこで立ち止まった。膝に手をついて肩で息をする。ひどく疲れて体中から汗をかいているのにそれがとても心地よかった。

 日差しはとても強かった。

冬が過ぎて、春を抜けたみたいに。

 目の前をひらひらと泳ぐ桜の花を見ても――もう切なさや、やるせなさを感じることはなかった。

 季節は変わり巡っていく。

冬が過ぎて、春が終われば――

 

 ――夏が来る。

 

 僕の“夏への扉”は、この先にある。

 

 だから学校の図書館に入り、司書室のドアを開けてそれが待ち受けていた時、僕には驚きも戸惑いもなかった。

 僕はその黒い獣を――ジャバウォックを真っ直ぐに見つめた。

 

「おかえり、白兎君――そして、ようこそ悪夢へ」

 

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