iの終わりに~17話
第17話 ディドルディドル
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フィンの瞳は虚ろだった。
昨夜、これからどうしていいのか分からなくなった僕たちは、お互いに少しだけ距離を取った場所で横になった。
僕はフィンが眠るまでは起きていようと思ったけれど、いつの間にか眠りについてしまった。子守唄を聞かされた子供みたいに。
目を覚ました僕は慌てて起き上がった。
「フィン、もしかして眠っていないの?」
「ええ、眠ってしまったらもう起きられないような、永遠に怖い夢の中で暮らさなければいけいような気がして、眠れなかったの」
怖い夢? と僕は疑問に思った。
けれど彼女が都合の良い夢に沈んでしまわなくて良かったと思った。
「大丈夫?」
「ええ、とくにどうということもないし、何も変わらないわ」
「何かしてほしいこととかない?」
本当はフィンの母親のこと尋ねたかった。彼女の母親がどこにいるのか、生きているのか、もしかしたら死んでいるのか、何か手がかりになることや、思い出せることがあるのか尋ねたかったけれど、それを尋ねることはできなかった。
尋ねたところで、まともな回答が返ってこないことを僕は確信していた。
「林檎が一つあったような気がしたんだけれど?」
「あったよ。林檎が食べたいの?」
「分からないんだけど、剥いてくれる?」
「いいよ。直ぐに剥くから待っていて」
僕は立ち上がって急いでキッチンへ向かった。
少しでも遅れると林檎が灰に変わってしまうような気がした。僕自身も箍が外れていたのかもしれない。螺旋が一つ抜け落ちてしまったみたいに。
「ねぇ、兎の形に剥いてほしいんだけど、できる?」
「多分、できると思う」
僕はダイニングキッチンに向かい、籠の中の真っ赤な林檎とペティナイフを手に取って直ぐに林檎を剥こうとした。
すると玄関の方から物音が聞こえて来た――扉が開く音、人の気配、数名の足音、扉が閉まる音、数名の足音、そして息遣い。
まさか、シヲリさんがフィンを連れ戻しに?
僕はペティナイフと林檎を持ったままリビングの扉の前に立って、招かれざる客を待ち受けた。
振り返って彼女を見つめると、フィンは招かれざる客に対して全くの無関心で、まるで興味を示していなかった。全てのことがどうでもよさそうだった。。
そして、ゆっくりと扉が開いた。
「遅刻ですわ、遅刻」「遅刻ですね、遅刻」
僕の手から林檎がこぼれた――地面に落ちて転がった。
まるで熟し過ぎた果実が、その重みに耐えられなくなったみたいに。
僕は言葉を失ったまま唖然としていた。
扉の奥から現れたのは可愛げな女子二人だった。
鏡に映したように同じ形、同じ姿、同じ顔、同じ表情をした女の子二人が、部屋に入って来るなり、同じ仕草でそう漏らした。
「もうこんなお時間ですものね。さぁ、お二方、早く参りましょう。さぁ、参りましょう」「ええ、もうこんなお時間。でも、まだ何も説明していないのではなくて?」「そうだったかしら?」「そうよ。だって、まるで『セイウチと大工』の詩を聞かされたような顔をしていてよ」「本当、中身を食べられてしまった牡蠣の殻みたいな顔をしている」
双子のように同じ顔をした二人の女の子は、僕の顔を覗き込むように見つめて笑い、同時に頷いた。本当に、どちらかを鏡で映しているみたいだった。
「わたくし、トゥイードル・ダムと申します」「あたくし、トゥイードル・ディーと申します」
二人は自己紹介をした後、長いスカートの裾を掴んで慎ましくお辞儀をした。
二人とも綺麗に巻いた栗色の髪の毛に大きなリボンを乗せ、まるで舞踏会に行くみたいに華やかな黒いドレスに身を包んでいた。
二人は高級なビスクドールみたいだった。
“星に願いを”かけて、命が吹きこまれたみたいに。
「それより、その危なっかしいものをレディに向けるのはおやめになってくれません?」「ナイフよりも切れ味の鋭い、あたくしたちの詩が聞きたいというのなら別ですけど」「なんなら一つ『マザーグース』でも披露してさしあげましょうか?」「それは名案ね、ダム」「でしょう、ディー」「でも、時間がないわ。このままだと遅刻してしまう」「そうね、時間がないわ」「とても残念」
僕はペティナイフをダイニングキッチンに置いた。
まるで何が何だか訳が分からなかった――まるでウォルト・ディズニーの映画を鑑賞しているような気持だった。
「それでは、参りましょう、お二方。“ワンダーワールド”までご案内するように仰せつかっているのですから。あれ、あたくしたち、ワンダーワールドのご説明はなさって?」「いいえ、ディー。わたくしたち、まだ何の説明もしていなくってよ。それに、ワンダーワールドにお連れする前に、ナーサリーにお連れてしなければ」「確かにそうね、ダム」「ええ、ディー、まずはナーサリーへ」「ええ、ナーサリーへ。もう、こんな時間。遅刻ですわ、遅刻」「まぁ、本当。もう、こんな時間。遅刻ですね、遅刻」
二人は同時に首から下げた、まるで読み方の分からない懐中時計を眺めた。
鎖で繋がれた金色の懐中時計には九つの針があり、それぞれがあべこべに動いていた。本来、時計の針が回る方向とは逆に回っている針まであって、見ているだけで頭がおかしくなりそうな時計だった。
そんな時計があるのなら時間まで巻き戻してほしい、そんなことを本気で思った。
「君たちは何者なんだ? 勝手に土足で人の家に上がりこんで、訳の分からないことを並べ立てて、一体何がしたいんだ」
僕が尋ねると、二人は顔を見合わせてくすくすと笑いだした。
「わたくし、トゥイードル・ダムと申しませんでした?」「あたくし、トゥイードル・ディーと申しませんでした?」
「それは分かっているよ、ルイス・キャロルだろ。そんな下らないごっこ遊びを聞いているんじゃないんだよ――」
僕が苛立ちに声を荒げると、二人は甲高い声できゃははと笑った。
そして、一頻り笑うと二人は僕を見つめて口を開いた。
「わたくしたち――」「あたくしたち――」
声を揃え、和音を奏でるようにして――告げた。
「ディドルディドル」
その名前を聞いた瞬間、僕の胸の鼓動が早まって足が震えた。
二人は僕を嘲笑うかのように、くすくすと笑いながら歌い始めた。
Hi-diddle-dee-dee
An actor's life for me
A high silk hat and a silver cane
A watch of gold with a diamond chain
Hi-diddle-dee-day
An actor's life is gay
It's great to be a celebrity
An actor's life for me
Hi-diddle-dee-dum
An actor's life is fun
手を叩きながらステップを踏み、くるくると踊るさまは、ミュージカルさながらの陽気さだった。
そして、まるで場違いな馬鹿騒ぎだった。
「分かって頂けて? わたくしたち、あなた方に招待状を持って参りましたの」
「招待状?」
「ええ、あたくしたちのナーサリーへの招待状を待って参りましたの」
「ナーサリー?」
「おもちゃ箱よ」「子供部屋ね」
「おもちゃ箱? 子供部屋?」
「そのとおりよ」「そのとおりね」
僕は全くかみ合わない話のやり取りに、うんざりした。
彼女たち、トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーと言葉を交わすたびに、自分がどうしようもない馬鹿に、まるで言葉を奪われた人形のようになってしまったような気持になった。分かっていることは、トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーが僕たちに招待状を持ってきていて、ナーサリーという場所に僕たちを招待しているということだった。
こんなことなら、昨夜みたいに半ば暴力的ともいえるやり方で誘拐される方が何倍もマシに思えた。それならばこんなに思い悩んだり、うんざりしたりするようなことはなくて、物事はもっとシンプルで単純明快だったはずだと思った。
それでも僕はフィンを守るように両手を広げて、彼女たちに立ち塞がった。
「悪いけど、僕は君たちの招待には応じない。勝手にネバーランドでマッド・ティーパーティでもやっててくれよ。とにかく、もう、ほっておいてくれ」
「あら?」「あらら?」
二人は同じように驚いて見せ、口元手に手を当てた。
「行きましょうよ」
背中から抑揚のない静かな声が聞こえて、僕は振り返った。
フィンが立っていた。
「行くって、まさか彼女たちと――ディドルディドルのところへ?」
フィンは何でもないといった様子――まるでお茶会に参加する程度の気軽さで頷いた。
「せっかくだから招待に応じようと思うの。どうせここにいたって何一つやることなんてないんだから」
「でも、何をされるか分からないし、もしかしたら危険な目に遭うかも」
「そんなことありえませんわ」「そんなことありえませんよ」
フィンを思い留まらせようとすると、双子のような女の子はとんでもないと大きく首を横に振った。
「昨日、いきなり車で追い回したりしておいて、危険な目には遭わせない? そんなこと信じられるわけないだろ」
「あれは時間がなくて」「あれは遅刻しそうで」
「そんな理由で――ふざけるな。それに、あの車に乗っていたのはあんたたちの仲間だろ? あんな危ないことをして怪我じゃすまなかったはずだ」
「あら、別にこんな偽物の世界の体、どうなったって構わないのではなくて?」「そう、こんなインチキの世界で、あたくしたちがどうなろうと、どうでもいいのではなくて?」
「どういう意味だ?」
「だって、もしもこの偽物の世界で危険な目に遭ったのなら、眠ってしまえばいいだけの話ではなくて? そうすれば、痛みも苦しみもない幸せな世界で、私たちは一生暮らしていける」「そう、眠りついて本当に世界へ行ってしまえば、全て解決。そこは大人たちには絶対に手出しできない、子供たちだけの王国」
僕は、僕が今目の前にしている双子のような女の子が、どうしようもなくコギトで、どうしようもないほどにコギトなんだと思い知らされていた。
彼女たちディドルディドルにとっては、この世界はどこまでいってもただの偽物のインチキで、彼女たちが眠った先にしか本当の世界は存在していないんだと思い知らされた。
「そこは、永遠の遊園地」「そう、幸せのつまったおもちゃ箱」
そうして、またしても二人は声を揃えて歌うように続けた――
「さぁ、白兎と黒兎、共に参りましょう」「笛を鳴らして」「ラッパを吹いて」「踊りに合わせて」「手拍子叩いて」「ディドルディドルがごあんなーい」「行先は?」「もちろん」「子供たちだけの」「子供たちによる」「子供たちのための」「ワンダーワールド」
トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーはフィンの両脇に立って、それぞれフィンの手を取ると、その手をリズミカルに振りだした。ダンスに誘うように。
「さぁ、ご一緒に」「掛け声は『ハイホー、ハイホー』で」「それとも、『ハイ、ディドル、ディーディー』の方がよろしくて」
彼女たちは瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべて新しい仲間となるべきものを歓迎していた。
「ああ、もうこんな時間。遅刻よ、遅刻」「そうね、もうこんな時間。遅刻ね、遅刻」
フィンは僕の方を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「私は、彼女たちと行くわ」
「行って、どうするの?」
「さっきも言ったけれど、どうせここにいてもやることもないし、学校に通っている意味もなくなってしまったところだし。でも、あなたまで無理について来る必要はないと思うの。だから、それなら、ここで――」
「僕も行くよ。ここまで来て、こんなところでお別れなんて、そんなこと――」
僕はかなり傷ついていた。落ち込んでもいたし、がっかりもしていた。
彼女に“ついて来てほしい”って言ってもらいたかった。
だから、彼女の言葉を最後まで聞いていられずに、僕は彼女の言葉をかき消すように――ついて行くと言った。
フィンは特に気にした様子もく小さく頷いただけだった。
その事に、僕はなおさら傷ついていた。
トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーと手を繋いで部屋を出て行こうとするフィンの背中を見失わないように、僕も何とか足を前にして先へ進もうとした。
踏み出した足の裏に、まるで誰かの心臓を踏みつぶしたような不愉快で不気味な感触がした。
林檎だった。
真っ赤な林檎がぐしゃぐしゃになっていた。
僕はそれを見て目を背けた。
何事もなかったかのように忘れ去ろうとした。
前を歩く三人は、まるで僕のことなんて忘れてしまったみたいだった。
僕は足の裏に不愉快な感触が残ったまま――
――そして鼓膜の奥では、いつまでも彼女たちの馬鹿騒ぎ残滓が残っていた。
Hi-diddle-dee-dum
An actor's life is fun
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