私はあてもなく公園を歩いた。
まるで幽霊になったみたいにさまよった。
先ほどまで不愉快な程に晴れた空には重苦しい灰色の雲がかかり、遠くの方では紫色の雷が光っていて、まるで空が落ちてくるみたいだった。私のことを押しつぶしてしまうみたいに。
私はハニーのことを考えた。
どこで間違えちゃったんだろうって、必死になって不正解の解答を解き直すみたいに、どこで糸がこんがらがっちゃたんだろうって考えた。
けれど、どれだけ考えてもその糸が解けなかった。
答えは見つからなかった。
ハニーに嘘を吐かなければ。一之瀬君と気分転換なんてしなければ。一之瀬君が私のことを好きにならなければ。ハニーが一之瀬君を私に紹介しなければ。ハニーと友達にならなければ。私はそんなことを考えるのをやめた。
起こった出来事は変えられないし、今さらどうしようもない。もうぜんぶどうしようもなかったことで、もうぜんぶ終わったことなんだ。そう考えれば少しは楽になるような気がした。
もともとハニーと私とじゃ性格が違い過ぎる。見た目だって全然違うし、仲のいい友達のグループも違うし、私なんかと仲良くなるようなタイプの女の子じゃなかったんだ。
仕方なく私に付き合ってくれてただけだったんだ。
一緒にバンドを始めたのだって私がしつこく誘ったから、仕方なくだったんだ。
「違うよ。そんなこと……ぜったい違う」
私は大きく首を横に振った。
今までの私たちを否定してしまようなことを、私はどうしても信じることができなかった。
「ねぇ青瀬さんだっけ? お昼の放送でジャズ流してるでしょ?」
初めて話しかけてくれたのはハニーからだった。その出会いは中学二年生に上がったばかり頃で、私はクラス替えをしたばかりの教室に戸惑ってばかりだった。私は仲の良い吹奏楽部のメンバーとはぐれてしまって、まるで森の中で迷子になってしまったように心細かった。
私は新しいクラスの中で、なかなか自分の居場所を見つけられずにいた。
私は何とか自分の居場所を見つけようと、一年生の時にやっていた放送委員になった。
そして昼の放送を任されるようになった。
私のことを気にかけてくれていた先輩が、〝やりたい企画があったら好きにやっていいよ〟と言ってくれた。私は意気込んでお昼の放送でジャズを流すようになり、どうせなら海外のラジオDJっぽく放送したほうが、きっと雰囲気が出るだろうと思って、清水の舞台から飛び降りる気持ちでDJになりきった。クラスではいまいちだけど放送委員ではがんばろう、そんなことを考えていたのかもしれない。
そしてある日、お昼の放送を終えて教室に戻った私を待っていたのは、背の高いモデルさんみたいな女の子だった。
「お昼の放送で流してた曲さ、あれ〝Moanin'〟でしょ?」
「はっ、はい」
「なんだっけ、……アート・ブレイキーだっけ? 青瀬さん、ジャズに詳しいかんじ?」
「えっと、その……詳しいってわけじゃないけど、楽器でジャズを習ってまして、それで――」
私は俯きながらたどたどしく言った。
「へぇ、楽器やってるんだ。私の兄貴も楽器やってて、たまに私も楽器に触らしてもらったりするんだよね」
「あ、あの……もしかして蜂ヶ崎さんもジャズを聴くんですか?」
「敬語やめてよ」
「あ、はい。じゃなくて……うん」
「そうそう。ジャズ。うん。聴くよ」
「えっと……どんなジャズが好き? 私、同い年でジャズ聴いてる人はじめてなの。それに蜂ヶ崎さんは楽器も弾けるの? 何の楽器? 私はね、サックスとギターを習っててね、好きなジャズはね――」
「ストップ、ストップ、そんなにいっぺん質問されても答えられないって。一問一答にしてよ。青瀬さんって面白いね」
指摘されて私は恥ずかしくなった。
はじめて同い年でジャズを聴いている女の子に出会ったせいか、私は興奮して一機阿寒に捲し立ててしまった。
ああもう、私ってどうしてコミュニケーションの取り方が下手くそなんだろう、そう思った。
「ジャズはねー、別に詳しいって訳じゃないし、兄貴の影響かな。聴くっていっても、たまにだけどね」
それでも私に声をかけてくれた風変わりな女の子は、丁寧に私の質問に答えてくれた。
「好きなジャズっていわれてもよく分かんないなー。兄貴が大学のジャズ研に入っててさ、そこでベース弾いてるんだ。〝レイ・ブラウン〟ってジャズ・ベーシストがお気に入りらしいんだけど、私もその人が演奏している曲は、まぁ良く聴くかな? それで、私も兄貴のおさがりのベースもらってたまに弾いてる」
〝レイ・ブラウン〟。
その名前を聞いた瞬間に、私の興奮は最高潮になった。
思いきりに楽器を弾き鳴らした感じ。
それもめいいっぱいスイングして。
だって、レイ・ブラウンはエラ・フィッツジェラルドの旦那さんなんだもん。離婚しちゃったけど。
私は運命的な何かを感じて胸をときめかせた。
何か素敵なことがはじまる予感がした。
その日を境に、私たちの間にジャズを通じたささやかな交流がうまれた。その交流がより深いものに、ジャズがまるで関係のない年頃の女の子の甘い交流になるのには、さほど時間がかからなかった。
「ねぇ、いいかげん蜂ヶ崎さんじゃなくて、蜜って呼んでよ。私もハルって呼んでるんだからさ」
「えっ、じゃ、じゃあ、その……ハニーって呼んでもいい?」
「ええ、なにそれ? すごい辱めを受けてるみたい」
ハニーはころころと笑い、私もつられて笑った。
ハニーは私の話は何でも聞いてくれた。
一緒に楽器でセッションをしようよって言った時も、喜んで付き合ってくれた。私の貸したCDはなんでも直ぐに聴いてくれて、翌日には評論会を開いてくれた。私の書いた詩を読んで笑ってくれた。三年生になって一緒に放送委員入ろうって誘うと〝いいよ〟って頷いてくれた。私書いた物語を最後まで読んで〝面白かったよ〟って言ってくれた。
私が勇気を振り絞って〝一緒にジャズ・バンドをやろうよ〟って言った時も、中学三年生の一番忙しい時期なのに、ハニーは笑って頷いてくれた。
「しょうがないなあ、このハニーお姉さんがハルのわがままにつきあってあげよう。バンド名、かっこいいの考えてよね?」
ハニーのおかげで私の中学生生活は蜂蜜色だった。
それは本当に甘くて素敵な毎日だった。
気がついたら私は泣いていた。
突然降りだした土砂降りの雨に打たれながら、さめざめと泣いていた。
私の中にあるもやもやを、行き場ややり場のない感情の全てを洗い流してほしい、そう思った。
だけど大粒の雨はどこまでも強く私を打ち、その冷たさと痛さに私は打ちひしがれていた。
私は曇り空を見上げて泣いた。
このままいつまでも雨に打たれて泣いていよう、そう思った。
すると、ふと雨が止んだ。
私の視界をラムネ色が覆った。
「こんなところで雨に打たれて感傷的になるのもいいけど、受験生なら体のことも考えた方がいい」
振り返ると、そこにいたのは今一番会いたくない人で、それなのに今一番会いたい人だった。
見覚えのあるラムネ色の傘を私にかざしてくれた年上の異性は、意地悪く微笑んで私を傘の中に引き入れた。
「酷い顔だね」
「……夏緒さん?」
「それにこんなに体を冷やして、とんだ濡れ鼠だな。さぁ、あったかいコーヒーを淹れてあげるからお兄さんについてきなさい。コーヒーにはたっぷりの蜂蜜をいれてあげよう」
私は土砂降りの雨よりも激しく泣いた。
自分がどうして泣いているのか、もう分らなくなっていた。
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