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ひとりぼっちのソユーズ Fly Me to the Moon (完全版2)

ひとりぼっちのソユーズ Fly Me to the Moon

『カクヨム』で続きの短編を投稿し始めたので、完全版という形で改めてブログに掲載することにしました。(完全版は2まであります)

以下はあらすじです。

 

幼いころに出会った外国の女の子ユーリヤ。
彼女は僕にとって特別な女の子で、僕の女王様だった。
彼女は僕のことを『スプートニク』と呼び、僕に色々なことを教えてくれた。宇宙のこと、月のこと、アームストロングっていう嘘っぱちのこと。彼女はいつも『北方四島』を賭けた。いつしか僕たちはばらばらになり、彼女を一人ぼっちにしてしまった。

だから、あの月の綺麗な夜――僕は思ったんだ。
僕は月向うんだって。君を月に連れて行くために。君をひとりぼっちにしないために。

 

 5 ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン

 

 中学生に上がると、僕とユーリヤは会話すらしなくなっていた。

 

 同じ中学校に通っているのに――もう一緒に登下校をしたり、休みの日に彼女の家に遊びに行ったり、二人で宇宙の話をして盛り上がったりなんてことは一度もなく、以前にそんなことをしていたことが嘘みたいだった。それは何万光年も離れた場所で起きた、遥か彼方のことなんじゃないかってくらいに。

 

 結局、彼女と一緒に登下校をすることも、休みの日に二人で遊ぶことも、二度となかった。

 

 ユーリヤは中学生になると、今までよりもどんどん大人っぽくなって、綺麗になっていった。

 

 女の子じゃなくて女性になっていく、そんな感じだった。

 

 学校で話題になることもしばしばあった。

 家が近所で小学生の頃に仲が良かった僕に――彼女を紹介してほしいなんて言ってくる男子生徒も何人かいたけど、僕は適当なことを言ってはぐらかした。

 

 そんな時、いつも僕の胸は痛んだ。

 

 僕はどんどん綺麗になっていくユーリヤを眺めているのが、いつの間にかつらくなっていた。

 

 彼女は成長すれば成長するほどに、美しさを手に入れれば手に入れるほどに、孤独で人を寄せつけなくなっていた。

 

 いつも一人でいたし、必要最低限の人づきあいしかしなかった。氷を張った池みたいな灰色の瞳は人を寄せつけなかった。長い冬が訪れたような冷たい表情と白い肌、感情をおもてに出さない態度が、他者とのかかわりを拒絶していた。

 

 彼女は「自分の隣には誰も必要ありません」みたいなスタンスを徹底的に貫いていた。

 

 だけど、どうしてだろう? 

 遠くから眺めることしかできない僕の目には――彼女の背中が前よりも小さく、弱々しく見えていた。寒さの中で凍えているみたいに。

 

 そして、彼女はやっぱりいつも体育を見学していた。

 

 校庭の遠くの方から所在無さ気に一人ぽつんと座っているユーリヤは、まるで中身のないマトリョーシカみたいに見えた。それはとても孤独で空っぽなマトリョーシカみたいだった。

 

 ユーリヤはもうあの自己紹介をしなくなっていた。

 

 ――ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナ。

 

 彼女が自分で自分につけた素敵な名前。

 僕が大好きだった彼女の名前を――彼女はもう名乗らなかった。

 

 彼女はしっかりと、そして完璧な日本語で「藤堂ユリヤ」と――本名で自己紹介をするようになっていた。

 

 そしてそれを名乗る時の彼女は、感情さえも失ってしまったみたいに無表情で、まるで氷の仮面をかぶっているみたいだった。

 

 いつもクールで澄ましている彼女は――「藤堂ユリヤ」という氷の仮面をかぶることによって、『ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナ』であった時の感情や記憶や、思い出や、情熱を長い冬の中に閉じ込めて、忘れ去っているんじゃないかって。

 

 ――ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナ。

 

 彼女のその名前の意味を、この頃の僕はもうとっくに知っていた。

 

 ――ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン

 

 世界で初めて宇宙に行ったロシアの宇宙飛行士の名前。

 彼女がどれだけの思いを込めて、その宇宙飛行士に自分を重ねていたのか僕には分からない。

 

 だけど、そう名乗らなくなった彼女は、もう全ての情熱を、月へ向かうエネルギーのようなものの全てを失っているようにさえ見えた。暗く冷たい宇宙空間の中で、地球の周りをただ漂い続けるデブリのみたいに。

 

 中学二年生に上がると僕たちは別々のクラスになった。

 

 それで、そんな彼女の姿を眺めることも少なくなり、僕もユーリヤのことをあんまり考えないようになっていった。

 

 それは長い冬の間に忘れ去られて、次から次へと訪れては移ろう季節に流されていくようだった。

 

 新しい色々なものが、どんどんと僕の中に入り込んで来る。

 新しいものがどんどんと僕の中に重なり、積み上がっていく。

 幼い頃の感情だったり、思い出だったりが、少しずつ霞み、新しい思い出の中に埋もれていく。

 

 そしてそれに苛立ち、それを寂しく思いながらも、僕にはどうすることもできなかった。

 

 手を伸ばすことも、耳をかたむけることも、振り返ることも、追いかけることもできず――ただ茫然と新しいものの中で、新しい自分と、新しい日常に流されるだけの日々が続いた。

 

 僕たちは引かれてしまった『国境線』のこちら側と、向こう側にいた――

 

 ――そして、お互いに背を向けて歩き出していた。

 

 6 月の金貨

 

 中学三年生の冬。

 

 僕たちは一度だけ長く会話をしたことがあった。

 高校進学への受験を目前に控えたナーバスな時期で、僕は今まで自堕落だった生活を改め、何とか希望の都立高校に入学したくて、遅すぎる巻き返しを図っていた。

 

 塾の帰り道。

 

 長い坂道を上ろうとするところで、街灯の下にぽつんと立って夜空を見上げているユーリヤを見つけた。

 

 百メートルぐらい手前から――多分もっとずっと前から、それが彼女の背中だってことが僕には分かっていた。

 

 まるで北の孤島に一人取り残されたような彼女の姿が、僕の胸を打った。

 それは、とても久しぶりに感じる現実感のある痛みだった。

 何となく薄っぺらく、嘘くさい毎日を過ごしていたあの頃の僕には、その痛みがどこか懐かしく感じられた。

 

 ユーリヤは近づいて来る自転車の音に気がついて振り返った。

 僕たちは互いに目を合わせた。

 

 ユーリヤは少し驚いたような表情を浮かべた後、ホッと安心したような顔をした。

 

 そして穏やかににっこりと笑った。

 

何だかその笑顔を見た瞬間に、何かがゆっくりと溶けていくような気がした。

 僕は自然と自転車のブレーキを握っていた。

 

「何やってるの?」

「夜空を見てたの、今日満月でしょう?」

 

 僕たちは二人して夜空の月を眺めた。

 

 何だかその再会は、お互いの重力にもう一度引き寄せられた――そんな感じだった。

 

 そして、そんな月の見上げ方だった。

 

「ねぇ、久しぶりに宇宙公園行こうよ?」

「私も、何だか宇宙公園行きたいなって思ってた」

 

 僕の提案に彼女は同意してくれた。

 

「じゃあ、自転車の後ろ乗りなよ」

「私スカートなんだけど……大丈夫かな?」

 

 ユーリヤは青いハイネックのセーターに黒いピーコートを着て、ひざ丈上のスカートに黒いタイツとブーツを履いていた。それはとても『特別』な服装に見えた。やはり僕よりも二つか三つくらい、歳の離れたお姉さんに見えた。

 

「大丈夫だと思うけど、歩いていく?」

「二人乗りで行きましょう」

「じゃあ、安全運転で行くよ」

「ううん、スピード出して。とっても速く」

 

 僕は全速力で自転車を走らせた。

 運動会の百メートル走を全速力で駆け抜けたみたいに。

 

 それはいろいろなものを置いてきぼりにして、振り切ってしまうような、いろいろなわだかまりを振り払って、もやもやした気持ちを吹き飛ばしてしまうような、そんな速度だった。

 

僕の腰に手を回してギュッとしがみついたユーリヤは、そっと『Fly Me to the Moon』を口ずさんだ。

 

 だから僕も一緒に口ずさんだ。

 

 Fly me to the moon,

 And let me play among the stars

 Let me see what spring is like on Jupiter and Mars

 In other words. Hold my hand!

 In other words. Darling kiss me!

 

 流れていく景色や、こぼれる白い息が、なんとなく春の訪れと共に消えていく雪に見えた。

 

 僕たちはどこに行くんだろう?

 そんなことを考えながら――

 

 ――『Fly Me to the Moon』を歌った。

 

 宇宙公園は僕とユーリヤの家の近くにある小さな公園で――本当の名前は別にあるんだけど、僕たちは宇宙公園って呼んでいた。

 

 幼い頃の僕たちは、この小さな公園をアメリカの陰謀を暴く最前線の基地に位置づけて、日々の活動に勤しんでいた。

 

 ブランコと砂場、アスレチックしかない空間は、何だか月の裏側みたいに見えた。

 その静けさが心地よかった。

 

 公園のベンチに座って、来る途中に買った『紅茶花伝』のホットを二人で飲んだ。

 

「進学、どうするの?」

 

 しばらく無言で月を眺めていると、ユーリヤに尋ねられた。

 僕は自分が第一志望にしている高校の名前を告げた。

 

 すると、彼女は困ったような苦笑いを浮かべた。

 

「ずいぶんな高校に行くのね」

 

 本当にずいぶんな高校だったので、僕はとても恥ずかしく情けない気持ちになった。自分の自堕落さや無軌道さに憤りを覚えたのは、後にも先にもこの時だけだった。

 

「じゃあ、ユーリヤはどこに行くんだよ?」

 

 彼女の名を呼んでから、僕は――「しまった」って思った。

 

 数年ぶりに呼ぶ、その『名前』――『ユーリヤ』は、ひどく場違いな服を着て舞踏会に出る女の子みたいだった。そんな感じでこの場に響いた。

 

 だけど、ユーリヤはそれを心地よさそうに受け入れてくれた。手を取ってダンスをリードするみたいに。

 

 僕の気持ちは途端に軽くなり、僕を縛りつけていた重力がふっと消えてしまったみたいだった。

 

 ユーリヤは自分の志望している高校名を誇らしげに告げた。

 それは都内でも有数の進学校だった。

 

「ずいぶんすごい所狙ってるんだな」

「狙っているんじゃなくて――合格したのよ。推薦入学なんだから」

「え、試験を受けずに合格したの?」

「本気で言っているの? ――推薦入学よ。そんなことも知らないんだ?」

 

 彼女は呆れたように言った。

 

「聞いたような気はするけど、自分の受験に精一杯だから」

 

 僕は言い訳っぽく言った。

 だけど、彼女に「そんなことも知らないんだ?」と言われて、僕はとても嬉しかった。

 

「でも、おめでとう」

「ええ、ありがとうって言っておくわね。でも、いい高校に入学したくらいじゃ全然だめよ。まだスタートラインにすら立っていないんだから」

「スタートラインって――」

 

 僕の言葉の途中で彼女は月を見上げた。

 

「まさか宇宙飛行士の?」

「当然でしょ。アームストロングっていう嘘っぱちの次に月に立つのは、この私なんだから。『北方四島』を賭けたっていいわ」

 

 彼女はさも当然のように言った後で、思い出し笑いのようにくすくすと笑った。

 僕もつられて笑った。

 

 ユーリヤのその話し方は、子供の頃のユーリヤにそっくりだった。彼女が幼い頃を思い出しながら話をしているのが、手に取るように分かった。

 

 触れ合った肩を通して、彼女の感情や温かさが流れ込んでくるみたいだった。

 

 僕たちは必死に思い出をなぞりながら、離れていた時間を埋め合わせ、かけ離れていた距離を縮めるんだ――そんな気持になっていた。少なくとも僕は。

 

 この頃になれば、もう『北方四島』なんていうデリケートな話題で笑ったりしてはいけないんだって、当たり前に分かっていた。

 

 どうしてユーリヤの母親が彼女の頬を叩いて泣いたのかだって理解していたけれど、今だけは『北方四島』を賭けて話したっていいだろうって気持ちになっていた。

 

 それからは久しぶりに宇宙の話をした。

 

 話をしたといっても、宇宙について語ったのはユーリヤだけで、僕は昔のように大袈裟に語る彼女の話に――再び夢中になった。

 

「前世紀の月面着陸っていうと、冷戦構造の最中で互いの国の威信をかけて、一番乗りを目指して月に向かって宇宙船を飛ばしていたでしょう?」

「アメリカが月面着陸を成功させると、ロシアは月面着陸なんて意味はないみたいなコメントだしてたしね。行ったもん勝ちみたいなところはあったかもね」

 

 ユーリヤは僕のコメントを聞いて「よろしい」って感じで続きを口にした。

 

「だけど、今後の月面着陸には明確な目的や目標、現実的な意義、大きな展望があるのよ」

 

 彼女はゴホンと喉を鳴らして、もったいつけるように間を空けた。

 

「ここに大きなコップがあるとするでしょう?」

 

 ユーリヤは指一本前に突きだして話を続ける。

 

「コップの中に甘い水が入っている。みんなその水が飲みたくて、喉を潤したくて仕方がないの。アメリカ人たちがその水を十分の四飲んでしまう。続いてヨーロッパの人たち、ロシアも含めてね、その水を十分の三飲んでしまう。そして次に日本人の私たちが十分の一飲んでしまう。じゃあ、コップの中に残った水は後どれくらいかしら?」

 

 彼女は小さな子供に向けて授業をしているような感じで僕に尋ねた。

 僕は苦笑いを浮かべた。

 

「十分の二残っています」

「正解。じゃあ、その残りの水をみんなで、新興国や、これから発展してくる途上国も含めてね、分けようって言ったらどうなるでしょう?」

「とりあえず、争いになるんじゃないかな?」

 

 僕たちは複雑な表情を浮かべて互いの顔を見合わせた。

 

 これが何かの比喩だってことは、もうとっくに分かっていた。

 

 こんなことを話しているこの最中も、世界のどこかでは争いが起きているんだってことにも。

 

 そう、僕たちがいる場所が争いの最前線じゃないというだけで――争いの延長線上に僕たちは立っている。いやがおうもなく。

 

 ユーリヤは複雑そうな表情を浮かべて頷いた。

 

「そうね、なかなかその甘い水をみんなで分けるのは難しいわね。誰だっておいしい水を飲みたいのは当たり前よね? でもね、月を見上げてみると、そこにはもっとたくさんの甘い水があった。『星の銀貨』じゃなくて、まるで『月の金貨』――それはね、永遠に降って来るんじゃなかってくらいなの」

「『月の金貨』みたいな、永遠に降ってくるほどの水?」

「そう。それがね、『ヘリウム3』」

「ヘリウム3?」

 

 僕は聞き慣れない言葉を繰り返した。

 幼い頃、はじめてスプートニクと口にしたみたいに。

 

「地球上にはほとんど無いエネルギーで、それが月にはふんだんにあるの。要するに資源の採掘ね。そしてこれが、人が月へ向かう明確な目的や目標、現実的な意義。月の砂レゴリスには、ヘリウム3がふんだんに含まれていて、しかも現在の世界で使われている電力の数千年分のエネルギーが得られるって調査結果が、もう出ているのよ。もしヘリウム3で日本全体の一年間の消費電力をまかなうなら、数トンのヘリウム3があればいい。お釣りがくるどころか使い切れないぐらいよ」

 

 僕と彼女の間に引かれてしまった『国境線』――それに背を向けて別々の道を歩き始めてから、ユーリヤだけが前に進んでいたことを、僕は知った。

 

 ユーリヤがどれだけ必死になり、手の届かない夜空に、その先に浮かぶ月に情熱を注ぎ続けていたのか――この時、僕はようやく知ることができた。

 

 彼女は何も変わっていなかった。

 彼女は空っぽなんかじゃなかった。

 

 そして今の僕自身を、僕は情けなく思った。

 

「これで月を目指さない理由があるかしら?」

 

 彼女の灰色の瞳が昔のように、星空のようにキラキラと輝いていた。

 綺麗だなって、素直に思った。

 

「ないね」

「でしょう」

 

 ユーリヤは誇らしげに頷いた。

 

「でも、そんなに簡単にヘリウム3ってエネルギーになったりするのかな? 放射能とか出たり、地球を汚したりするんじゃないの?」

 

 僕が尋ねると、ユーリヤは指を振ってみせた。

 

「実に日本人らしい発想の疑問ね。だけど、ヘリウム3はとても安価でクリーンなエネルギーなの。ヘリウム3は月の砂『レゴリス』を六百度以上に加熱すれば得ることができる。陽子の運動としてエネルギーを取り出せば、より効率がいい。放射性廃棄物や、二次的に出る放射線の量も少なく、その意味ではヘリウム3は理想のエネルギーなのよ」

「すごい。本当に月の金貨だ」

 

 僕が言うと、ユーリヤは誇らしげに頷いた。

 

「そうなのよ。それにさっき月面着陸には現実的な意義と、大きな展望があるって言ったでしょう? 今話したのは現実的な意義のほう。大きな展望っていうのは、月の砂である『レゴリス』を地球に運ぶんじゃない。月面自体に『発電所』をつくって、そこでレゴリスを加熱してエネルギーをつくることなの。そして、そのエネルギーだけを地球に運ぶの」

 

 そう力強く語る彼女は、すでにその意義や展望が目前に迫っていることに胸をときめかせていた。

 

 そして、その未来が来ることを確信していた。

 

「もちろんあなたは――そして普通の人はこう考える。そんなに毎回毎回月に宇宙船を飛ばして大丈夫なのかしら? そんな費用はあるのかしら? そもそも地球のエネルギーを使い続けるのと、月でエネルギーをつくりそれを地球に運ぶこと、どちらが安く済むのかしら? 私たちの税金の無駄遣いじゃないだろうかって?」

 

 彼女はすでに月へ向かう『宇宙飛行士』のようだった。それを目前に控えて記者会見でもしているような、そんな口調でさえあった。

 

 彼女はずっと想像して来たんだと思う――自分が月へ行く時の、その姿を。

その瞬間を。

 

「でもね、これから先は毎回宇宙船を月に運ぶ必要はなくなるの。後十年もあれば、『軌道エレベーター』の建設実験が行われる。その更に数年後、『宇宙ステーション』は『軌道エレベーター』とドッキングして地球と宇宙を結ぶ『懸け橋』となる」

 

 ユーリヤは指先で地上を指した後、そっと線を引くようにその指先を夜空に掲げた。

 

 何かを別つためでなく、何かを繋ぐために優しく引かれたその線は――

 

 ――真っ直ぐに月を目指していた。

 

「そうなれば、安価で安全な宇宙への道が開ける。宇宙船を打ち上げる必要は少なくなる。そんな時代が、もうすぐそこまで来ているの。世界中のみんなが安価でクリーンなエネルギーを使える時代が、もうすぐそこまで来ているのよ。私はね、その第一歩になりたいの」

 

 7 ソユーズ

 

「ねぇ――」

 

 不意に立ち上がり、公園の滑り台の上に昇ったユーリヤは、そうこぼして続けた。

 

「私ね、ずっと〝ひとりぼっち〟だって思ってた」

 

 震える声が滑り台の上を滑って僕の所に届いた。

 

 それは長い年月をかけて――何万光年も離れていた場所から、ようやく届いたような声と言葉だった。

 

 見上げるとユーリヤは満月を背負っていて、青白い月の光を身にまとっていた。

 月からこぼれる銀色の光の粒に縁取られたユーリヤは、妖精のように翼を広げて、そのまま月にまで飛んで行ってしまうみたいだった。

 

 僕はそんな彼女に手を伸ばそうとした。

もう一度ユーリヤに手を伸ばして、彼女の言葉に耳をかたむけようとした。

 

「周りには私とは違う人たちがたくさんいて――私はお父さんとも、お母さんとも少しだけ違った。私は、一体何なんだろうって、ずっと思っていたの」

 

 彼女の声は心もとなかった。

 

「だからね、神様って意地悪なんだなって――ずっと思っていたの。だって、そうでしょう? 肌の色も違くて、言葉も違う、考えたかも違う人たちをたくさんつくるなんて、とても意地が悪いじゃない? 私たちが言い合ったり、喧嘩したりするようにつくったとしか思えないもの」

 

 ユーリヤは自分が子供のころから感じていたこと、思っていたこと、内に秘めていたことを――少しずつ吐露し始めた。

 

 雪解けの後に芽生える春の草花みたいに、彼女の言葉の一つ一つが僕の中に根付いて芽生えていく、そんな気がした。

 

 彼女のこの言葉が、いつか僕の中で大きく広がっていくだろう――そんな予感がした。

 

「でもね、そんな時ね、宇宙には神様がいないって知ったの。人類で初めて宇宙に行ったユーリイ・ガガーリンはね、宇宙に行った時に、『ここに神は見当たらない』って言った。だから、私は宇宙に行けばいいんだって、宇宙に行けば平和なんだって、漠然と考えたの。今思えば子供よね?」

 

 彼女ははにかみ、苦笑いを浮かべた。

 その笑顔はとても胸を打つ笑顔で、恐らく一生忘れられない類の笑顔だなって僕は思った。

 

「ねぇ、『ソユーズ』って知ってる」

 

 突然に尋ねられて、僕は喉が詰まって声が出せなかった。

 

ソユーズはね、本当は有人月面旅行の為につくられた宇宙船だったの。だけど、結局月には行けなかった」

 

 ユーリヤはとても残念そうに続けた。

 

「私ね、ずっと私はソユーズなんだって思ってた。結局、月に行くことができない――『ひとりぼっちのソユーズ』なんじゃないかって。だから、そんな不安を消し去りたくて必死だった。大人ぶって、意地を張って、自分は特別なんだって言い聞かせてた。でも、ほとんど失敗ばかりだった。だけど、そんなポンコツみたいな私にも、あなたがいてくれた」

 

 彼女は親しみを込めて僕を見つめた。

 

「私はひとりぼっちじゃなかった。私には『スプートニク』がいるんだって、そう思えるだけで私は嬉しかったし、それだけで前に進むことができた。私はずっと迷子だったけど、少なくとも『ひとりぼっち』じゃなかった。それはとても素敵なことだったの」

 

 ユーリヤが一体どれだけの苦悩の末に――宇宙や月に、自分の存在の意義を、アイデンティティを求めたのかを、僕は知ることができて良かったと思った。

 

 今まで複雑にこんがらがり、絡まっていたものが、そこでようやくけたような気がした。

 

 いや、もしかしたらそれは今でも絡まり、こんがらがったままなのかもしれない――それでも、僕はその絡まったままのものを、そのまま受け入れることができるだろう、そう思った。

 

 月を見上げるユーリヤの心は、そして魂の半分は、すでにこの重力に縛られたこの星を離れて――

 

 ――月にあった。

 

「ねぇ、本当に地球って青いのかな?」

 

 ユーリヤは尋ねた。

 

「本当に月って丸いのかな?」

 

 ユーリヤは知りたがった。

 

「神様って、本当にいないのかな?」

 

 そしてユーリヤは願った。

 

 僕がここで何て答えたかは、無粋だし、愚にもつかない面白みのないものだから割愛しておこうと思う。

 

「ねぇ、私ね……私がもし死んじゃったら、地球のお墓には入りたくないな。そうね、月にまいてほしいな。何だか、それってとても素敵じゃない? 私の骨の一部が月で舞って、まるでダンスを踊るみたい。だから、お願い――」

 

 それが、この日のユーリヤの最後の言葉だった。

 

 この言葉を、僕は今でも思い出したことがない――ひとときも忘れたことがないから。

 

 それは、いつまでも僕の中でリフレインを続けている。

 

 あの日、宇宙公園からの帰り道――一人夜空の下を歩きながら満月に手を伸ばしてみると、それは何だかこの手の中につかめそうなぐらい小さく見えた。

 

 何だか、月がぐっと近いような気がした。

 

 そして大きな満月が――あの運動会の日にユーリヤにあげることができなかった金メダルに見えた。

 

 この時、僕は漠然と確信したんだと思う――僕は月へ行くんだって。

 

 ユーリヤがここまで僕を打ち上げてくれた。

 だから、この先は自分の情熱で、僕自身の推力で月へ向かうんだって、僕は自分に言い聞かせた。

 

『Fly Me to the Moon』は、いつまでもリフレインしている――

 

 ――今、この瞬間も。

 

 outro 月へ

 

 カウントダウンが始まると、僕は固く閉じていた目を開いた。

 狭い船内を見渡すと、僕の右隣にはロシア人が座っていて、僕の左隣にはアメリカ人が座っている。

 

 奇しくも冷戦構造を体現したような並びかただけど、僕たちの関係は良好だった。僕はウォッカもビールもいけるし、彼らも日本酒が大好きだ。

 

 ユーリヤ、僕たちはこれから宇宙へ向かうよ。

 そして月へ行くんだよ――

 

 ――ユーリヤの魂の半分が待っている月に、君をつれて。

 

 これから、本当に地球は青いのか、月は丸いのか、神様がいないのかを、僕は確認しに行くんだ。

 

 だけど、未だに地球の中では下らない争いが起こっている。僕たちの国はまだ最前線じゃないというだけで、変わらずにその延長線上にいる。

 

 そして、世界は穏やかとは程遠い。

 

 実のところ、『北方四島』だってまだ還ってきてはいない。

 賭けはまだユーリヤが勝ったままだ。

 

 そして、ユーリヤが言ったように、僕たちはずいぶん遠くまで行けるようになったんだよ。いろいろな問題を曖昧にして、棚に上げてしまったままだけど。

 

 赤道上に建設された二機の軌道エレベーターの稼働実験は終わりを迎えて、来年からは本格的に運用試験が始まろうとしている。

 

 月の砂であるレゴリスの採掘、そしてヘリウム3へのエネルギー化は順調で、軌道エレベーターの建設に伴い、月でのエネルギー化も視野に入ってきた。

 

 まぁ、それで各国同士の下らないいざこざは絶えなかったりするんだけど――宇宙の覇権を巡るイニシアチブの取り合いや、国際宇宙法の改定、月での領土問題、ヘリウム3に関する利権争い、化石燃料業界の反発――今のところ宇宙は穏やかで、静かで、平和だった。

 

 月は、もう目前だ。

 

 ずいぶん時間をかけて、ずいぶんと長い間待たせてしまったけれど、僕はもう少しでユーリヤが願った月に辿りつく。

 

 そしてあの日のユーリヤを、滑り台の上から見上げていた君を迎えに行く。

月に着いたら、まずは月で踊るんだ――

 

 ――君と一緒に。

 

 僕はユーリヤの『スプートニク』だから、君を『ひとりぼっち』にはしておかない。

 

 だから、もう少しだけ待っていてほしい。

 

 手を伸ばしていた月は、もう直ぐだから――

 

 ――ユーリヤを月につれて行くから。

 

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これ完結です。

kakuyomu.jpこちらでこの短編の続きを書いています。よかったら読んでみてください。

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