衛宮蔵人と婁圭虎は――互いに至近距離まで接近して徒手空拳での戦闘を行った。
二人ともナイフなどの殺傷能力のある武器を携帯していたが、それを抜く暇すらないことを――二人の兵士は十二分に知りえていた。
一瞬の隙、一瞬の逡巡が勝敗を決し、敗者に死を齎すことを――この二人は考えるまでもなく、そして戦場の経験ですらなく本能で知りえていたのだ。
向かい合って対峙した二人は、片や戦闘マシーンに、片や殺戮の獣に成り代わっていた。
先に仕掛けたのは獣だった。
婁圭虎は中国拳法、それも八極拳によく似た構えを取って掌底を繰り出した。
衛宮はガードを高く上げたままその攻撃をいなし、反撃の糸を探った。
この時、銃で撃ち抜かれた衛宮の右足はすでに戦闘を行えるような状態ではなく、いくらアドレナリンによって痛みを感じていないとは言っても、十全に動く状態ですらなかった。地面を踏むたびに血が吹き出し、右足を引くような形でした戦闘を行えなかった。
獣が血の匂いを嗅ぎもらすことなどなかった。
婁圭虎は掌底による攻撃で、わざと衛宮の胸より上に攻撃を集中させ、ガードの意識を上段に向けさせていた。そしてダメ押しとばかりに右の上段回し蹴りを放ち、ガードした衛宮の腕を吹き飛ばすと――よろめいた衛宮の右足に、鋭いローキックを放った。
「――ぐっ」
衛宮の顔が痛みで歪み、その視界が僅かにぶれた。
婁圭虎その好機を見逃さず、衛宮の心臓を目がけて掌底を繰り出した。
しかし、その掌が衛宮の心臓を穿つことは無く、虚しく虚空を切った。
衛宮は体を限界まで後ろに反らせ、ボクシングで言うところのスウェーバックの状態で婁圭虎の攻撃を避けてみせた。そして、そのまま突き出された獣の腕に飛びかかり、柔道で言うところの飛び三角締めのような形で婁圭虎に組みついた。
衛宮は一瞬で獣の腕と首を極めて地面に転ばせると、頸動脈を一気に締めにかかる。
「ぐおお」
婁圭虎は脳に酸素が回らなくなり、直ぐに意識が朦朧としはじめる。その時、婁圭虎が本能的にとった行動は――まさに獣の本能と呼べるものだった、
獣は首と腕に組みつかれたまま体をおもいきり持ち上げ、衛宮をただ力任せに中に浮かせた。その瞬間にも、逆方向に曲がった右腕は悲鳴を上げ続け、靭帯の切れる音が響いた。
「うおおおおおおお」
婁圭虎は雄叫びのような唸り声を上げながら、持ち上げた衛宮を地面に叩きつけようとした。それは、ただ純粋な暴力だった。
地面に叩きつけられる瞬間、咄嗟に婁圭虎から離れた衛宮は、背中から地面に転がると腕の力だけで体を持ち上げて、再び婁圭虎と向かい合った。
衛宮は右足を、婁圭虎は右手を使い物にならなくさせられて――
移動を制限されている衛宮は、距離を取ったら不利になると判断して敵に向かって行くが、間合いの選択権は婁圭虎にあった。
独特な歩方で衛宮との間合いを取ると、婁圭虎は腰のベルトに差した二本のナイフを取り出し――両手に鋭利な爪を携えた。
衛宮も咄嗟にコンバットナイフを取り出すが、獣のほうが一手早かった。
左右から繰り出される虚実の織り交ざった斬撃の数々に、衛宮は握った一本のナイフで応戦しなければならず、完全に防戦一方だった。
その上、痛んだ右足はもはや踏みとどまることもできず、反撃に転じることも敵わなかった。
婁圭虎は使い物にならなくなった右腕を鞭のようにしならせて、変則な斬撃を繰り出す。鞭打と呼ばれる技の応用だった。
獣は痛みをものともせず、衛宮蔵人の命を刈り取るためだけに攻撃を繰り出し続けた。
この時点で、勝敗は決していた。
少しずつ切り刻まれていく衛宮は、いつ致命傷を受けてもおかしくはない状態だった。しかし致命傷は与えられず、攻撃は衛宮の肌切り裂き、肉を断つだけに止まっていた。
婁圭虎自体は、この戦闘を楽しんでいるわけでも、衛宮をなぶり殺しにしているわけでもなかった。
先程掌底を放った際、衛宮から思わぬ反撃を受けたことが、婁圭虎の攻撃の判断を鈍らせていた。そして衛宮が防戦に徹していることが、何か起死回生の一手を狙っているように思え、止めの一撃を放てないでいたのだった。
このまま攻撃を続けてもいずれ衛宮蔵人は死を迎える。
徐々に攻撃の手を増やし、完全に隙を見せたところで、致命傷を加えれば問題はないだろう。
婁圭虎はそう判断していた。
しかし、それは婁圭虎唯一の失策だった。
このテロ攻撃が始まって唯一の判断の誤りだった。
この時、婁圭虎は獣の本能に従って衛宮蔵人を全力で殺しに行くべきだった。
時間を掛け、確実に息の根を止めるなどと安易な考えを抱いてはいけなかったのだ。
刹那――
婁圭虎の視線の先には、一人の男の姿が映った。
間違って紛れ込んできたかのように現れた一人の男。
それは戦場に似つかわしくない、冴えない男だった。
婁圭虎は知らなかった。
その男が、今日行われたテロリストの攻撃のことごとくを邪魔し――そして計画の全てを綻ばせた張本人であることを。
この男が、鈴木一郎であるということを――
そして自分を追い詰め、死に至らせる死神であるということを。
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