カクヨムはじめました!

小説投稿と雑記と飯のブログ!(たぶん……)

ひとりぼっちのソユーズ Fly Me to the Moon (完全版1)

ひとりぼっちのソユーズ Fly Me to the Moon

『カクヨム』で続きの短編を投稿し始めたので、完全版という形で改めてブログに掲載することにしました。(完全版は2まであります)

以下はあらすじです。

 

幼いころに出会った外国の女の子ユーリヤ。
彼女は僕にとって特別な女の子で、僕の女王様だった。
彼女は僕のことを『スプートニク』と呼び、僕に色々なことを教えてくれた。宇宙のこと、月のこと、アームストロングっていう嘘っぱちのこと。彼女はいつも『北方四島』を賭けた。いつしか僕たちはばらばらになり、彼女を一人ぼっちにしてしまった。

だから、あの月の綺麗な夜――僕は思ったんだ。
僕は月向うんだって。君を月に連れて行くために。君をひとりぼっちにしないために。

 

intro ユーリヤ

 intro ユーリア

 

 ユーリヤのことを今も僕は思いだす。

 もう、あれからどれくらいたったんだろうって。

 

 そのたびに、ずいぶんたったんだなって――過ぎてしまった時間の膨大さに途方に暮れてしまう。

 そして、浮かび上がる思い出の数々に耳をかたむけて、手を伸ばしてしまう。

 

 ユーリヤが言ったみたいに、僕たちはずいぶん遠くまで行けるようになったんだよ。いろいろな問題を曖昧にして、棚に上げてしまったままだけど。

 

 僕はユーリヤの『スプートニク』だった。

 いつも君のそばにいた。君の話を聞いて、君の背中を眺めて、君の棚引かせる長い髪を猫のように追いかけていた。

 

 こんなことを考え出すと、いろいろめそめそした気持ちになっちゃうから、本当はもっと楽しいことでも考えて、これから目の前に広がるはずの光景に胸をときめかせたり、隣に腰を下ろしているクルーにジョークの一つでもかましたりしたほうがいいと思うんだけど、やっぱり考えずにはいられなかった。

 

 だって――僕はもう一度ユーリヤの背中を追って、もう一度ユーリヤの『スプートニク』になりたくて、君を『ひとりぼっち』のままにしておきたくなくて、今この場所にいるんだから。

 

 そろそろカウントダウンが聞こえてくる。

 

 僕は目をつぶって両手を強く組み合わせた。

 それは、はたから見れば神様に祈っているように見えたかもしれない――

 

 ――だけど、僕は絶対に神様に祈ることはないんだ。

 

 1 スプートニク

 

 ユーリヤは変わった女の子だった。

 

 とても高いところからこぼした雫が飛び跳ねたような形の島国で、日本人とロシア人の『ハーフ』の女の子ってだけで変わってはいたんだけど、外見というよりも、おもに内面――心や魂の形が、ほかの女の子とは変わっていた。

 

 そしてユーリヤは『特別な女の子』だった。

 もちろん、誰にでもってわけじゃなくて――

 

 ――僕にとって『特別』だった。

 

 僕たちの家はご近所だった。

 突然引っ越してきたご近所さんで、わりと僕たちの親同士の仲が良くなった。それでご近所づきあいみたいなものがあったから、僕たちも自然と仲良くなっていったんだと思う。

 

 そこら辺の記憶って結構あいまいっていうか――何度も思い返すうちに、記憶の方が少しだけ美化されてしまっている可能性もあるから、まぁ、ご愛嬌。

 

 思い出って不思議なもので、自分の中で大切にしまっていればしまっているほど、少しずつ形を変えて色鮮やかになってしまう、そんな気がするんだよね。

 

 だけど、僕とユーリヤの出会いがお世辞にもよくなかったってことだけは――今でもばっちり覚えているんだよ。

 

 僕の母親が、最近引っ越してきたご近所さんに御惣菜か何かをおすそ分けするとかで、僕をそのご近所さんの家に連れて行ったのが――そもそもの始まりだった。

 

「玄関先で立ち話もなんだから」なんて、お決まりの井戸端会議開催の宣言を行った後、我々は――つまり僕と母親は――だだっ広いリビングにお通しされた。

 

 そして、そこから繰り広げられる話の長いこと長いこと。

 

 僕は、僕の遥か頭上を美しい放物線を描いて飛びかう、僕そっちのけの世間話にすっかり飽きてしまっていた。それに、その美しい放物線を描く会話の離発着は、僕がどれだけ手を伸ばしても手の届かないものだったので、僕はそれを呆然と見上げることしかできなかった。

 

 それに甘さ控えめのお上品なクッキーとか、あまりおいしくない紅茶にもがっかりしていた。

 やっぱり、これぐらいの年頃の男の子って甘いジュースとか、体に悪そうなお菓子の方がおいしいって思っちゃうんだよね。

 

 初めて目の前にする外国の女の人は、クッキーとか紅茶に負けないくらい上品で、かなり日本語が上手な人だったことは――何となく覚えている。

 

 僕はその外国の女の人を前にして、完全に委縮してしまっていた。

 案外、人見知りだったりするんだ。

 

 そんな状況に堪らなくなった僕は――「おしっこ」なんて嘘をついて、リビングを抜け出した。それから他人の家の中を探検と称して、うろちょろしたりした。宇宙人に捕らえられた少年が、宇宙船の中を何とか逃げ惑うような感じで。

 

 まぁ、好奇心旺盛な年頃の「これが若さか?」って感じの行動だよね。

 

 ユーリヤの家は本当に広かった。小さな僕には、それこそ巨大な『宇宙船』か『秘密基地』に見えてしまうぐらいに。実際は三階建だったんだけど、子供の僕には百階建ぐらい――部屋の数だって三百も四百もあるんじゃないかって思った。

 

 完全に大袈裟なんだけど、ぼろぼろでわずか三部屋しかないみすぼらしい我が家に比べると、ここはもう巨大な秘密基地と変わりがなかったんだよね――正直な話。

 

 僕隊員はそんな秘密の扉をかたっぱしから、何か面白いことがあるんじゃないかって、わくわくしながら開いていった。

 

 そして、あの部屋の扉を開けた。

 

 その扉は、他の扉と何だか違っているような気がしたんだ――開ける前から、『きっと何か素敵なことが起きるんじゃないか』って予感があったみたいに。

 

 まるで、とても長い物語のページを開くみたいな、そんな気がした。

 

 だから、金色のドアノブにそっと手を伸ばしてそれを回す時――僕の心臓は最高潮に高鳴っていた。

 

 どくんどくんって心臓の音が聞こえた。

 カウントダウンが始まったみたいに。

 

 扉を開くと、そこは広々とした書斎だった。

 

 思い返してみれば、そこが立派な書斎だったってことは分かるんだけど――あの時は何だろう、『秘密の図書館』? そんな感じに見えたのかもしれない。

 

 その秘密の図書館には、たくさんの宇宙船の模型があった。天井には太陽系の天体の模型が透明な紐でぶら下がっていたりして、僕は飛び跳ねてそれをつかまえようとした――

 

 ――夜空の星に手を伸ばすみたいに。

 

 そこは小さな宇宙空間だった。

 まるで不思議な重力に吸い寄せられたみたいに、僕はこの場所に辿りついた。そして飾られた宇宙船の模型を一つ手に取って眺めた。

 

 銃弾のような先端。

 縦長の真っ白な機体。

 裾の広がった噴射口。

 

 僕は思わず「わぁ」と声を上げた。

 

「勝手に触らないで」

 

 そこで突然、不機嫌で甲高い声が小宇宙を震わせた。

 

 僕が驚いて振り返ると、そこに小さな女の子が――

 

 ――ユーリヤがいた。

 

 とても清潔そうな――さっき洗濯が終わったばかりって感じの白いワンピースを着て、大きな灰色がかった瞳をした女の子が、僕をまっすぐに見つめていた。

 

 一目で、僕が知っている女の子とは違うんだって――彼女は『特別』なんだってことが分かる雰囲気が、そこにはあった。

 

 だけど、僕は怒られたと思って意気消沈(いきしょうちん)してしまっていた。

 

「あ……ごめん、この宇宙船……君の?」

 

 目の前にした女の子は、背丈こそ僕とそんなに変わらなかったんだけど――僕はこの年頃の男の子の中では、飛び切りに『おチビ』だったんだよね――何となく表情とか、雰囲気なんかが僕よりもぐっと大人っぽくて、二つか三つくらい歳が上のお姉さんに見えた。

 

 年上の人に怒られるって、この年頃だと結構めげちゃったりするよね。

 

「宇宙船じゃない。『ボストーク1号』」

 

 僕の目の前まで来た女の子は、僕の手から宇宙船――じゃなくて『ボストーク1号』を取り返すと、それを大事そうに両手で抱えた。まるで帰還する宇宙船を迎え入れるような、そんなとても優しい表情が印象的だった。

 

「ボストークって、その宇宙船の名前?」

 

 僕はびくびくしながら尋ねた。

 

「そうよ。世界で初めて人を乗せて宇宙に行ったロケットなんだから。そんなことも知らないんだ」

 

 僕を見つめてそう言った女の子は少しだけ得意げだった。

 

「知らない」

 

 僕は素直に白状して首を横に振った。

 

「あと、ここはパパの書斎なんだから勝手に入らないで」

「ごめん」

「人の家に来て、勝手にお部屋の扉を開けるなんて失礼だわ」

 

 女の子は唇をつんと尖らせて、出来の悪い弟を躾けるような口調でそう言った。

 

 僕はもう、とんでもないことを仕出かしてしまったんだという気持ちに駆られて、びくびくしっぱなしだった。

 

「ほら、早く出なさいよ。お母さんに言いつけてやるんだから」

 

 その言葉を聞いた瞬間に、僕は恐怖のどん底に突き落とされて、そして頭の中で「どうしよう」って一万回ぐらい叫びまくっていたと思う。

 

 変な汗をかいて、胃袋が裏返って、世界が反転してしまったみたいに。

まるで生きた心地がしなかった。

 

 母親に怒られるってある意味では、世界の終りよりも怖かったりするんだよね。

だって、その先にはさらに恐ろしい父親が待っているんだから。

 

ダースベイダーのテーマ――『The Imperial Marc』って知ってる? 本当にあれが流れてくる感じなんだよ。マジな話。

 

 そんなほぼ半べそ状態の僕を、女の子は意地悪く見つめて冷やかに笑った。

 

「内緒にしていてほしい?」

「うん」

 

 情けない話なんだけど僕はすがるように頷いた。

 女の子は仕方ないって調子で指を一本前に突きだした。

 

「いいけど、一つだけ条件があるわ」

「条件?」

「そうよ、今日からあなたは私の『スプートニク』になるの」

「スプ、ート、ニ?」

 

 初めて聞く『不思議なその言葉(スプートニク)』を聞き取れず、僕は言葉の意味を尋ね返した。

 

「『スプートニク」。人工衛星の名前よ。そんなことも知らないんだ」

 

 女の子はあの年頃の子供がよくするような、自分の知っていることをさも大袈裟に披露する感じで、「そんなことも知らないんだ」って――嫌味っぽく言った。

 

 それが彼女の口癖の一つだった。

 

 女の子は並んだ模型の中から、一つ選んで手に取ってそれを僕に渡した。

 その模型は金属の球に、一方向に向かって四本の棒がついた、何だか訳の分からない形をしていた。

 

「これが、スプートニク?」

「そう、それがスプートニクよ」

 

 それは人工衛星っていうよりは、工作の時間に失敗したガラクタみたいに見えた。

 あるいは金属の虫みたいな。

 

 もっとカッコいいのがいいなって思ったけど、それを口に出したりはしなかった。

 

人工衛星っていうのは、地球の周りをいつも離れずにぐるぐる回っているでしょう? それがあなた。つまり私の後ろを、いつもくっついてくればいいの。簡単でしょう?」

 

 腰に手を当てて偉そうにそう言う女の子は、今思えばめいっぱい背伸びをした『おませさん」で、とてもチャーミングだったんだけど――あの頃の僕にはとんでもなく酷い提案で、酷い女の子に見えたし、思えた。

 

 だって、これって要するに――彼女の子分になれってことなんだからさ。

 

「いい、これからあなたは私のスプートニクなんだから、勝手にどこかに行ったり、私の許可なく私の先に行ったりしちゃいけないんだからね」

 

 母親に怒られることと、彼女の子分になることを頭の中で天秤にかけて――僕はしぶしぶ大きく頷いた。

 

 女の子は満足げに頷いた。

 

「よろしい。私はユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナよ」

 

 そして、ワンピースの裾をつまんで可愛らしくお辞儀をした。

 その瞬間に、僕は体が浮かび上がったんじゃないかってくらい胸が弾んだ。

 

 人生で初めての無重力体験だった。

 

 ユーリヤは僕と目を合わせてにっこりと笑った。

 

「よろしくね、スプートニク

 

 2 アストロノーツ

 

 それから僕はユーリヤの家に遊びに行くようになって、休みの日はほとんどユーリヤの家で過ごすようになった。

 

 僕たちは双子のようにいつも一緒だった。

 

 僕が彼女の背中を追い、僕よりも少し先を歩く彼女が、不意に振り返る――そんな『だるまさんがころんだ』のような、無垢で心地よい関係を、僕たちはいつの間にかきずき上げていた。

 

 そして、きずき上げたものがいつまでの続くと、今以上に高くそびえ立っていくんだと――無条件で信じていた。

 

 ――だけど、それは何れ無慈悲に壊されてしまう幻想の塔だったのかもしれない。

 

 ユーリヤの家に行くと――広々とした玄関でユーリヤのお母さんが、まず僕を出迎えてくれた。その後で、母親の背中から顔を出したユーリヤが、「来るのが遅い」って、不機嫌そうにつんと唇を尖らせるのが毎度の光景だった。

 

 そんな調子のユーリヤを見て、彼女のお母さんが「せっかく来てくれたのに、そんなこと言うものじゃないのよ」なんてたしなめたりして、時折「ユーリヤと仲良くしてくれて、ありがとうね」とか、「わがままな子だけど、あなたと遊ぶようになって明るくなったのよ」とか、「家の中では、いつもあなたの話をしているのよ。さっきまで必死におめかししてたんだから」なんて、とても嬉しそうに話をしたりした。

 

 ユーリヤは、自分の目の前でそんなことを言われると、その度に顔を真っ赤にして「そんな余計なこと言わないでよ」とか、「おめかしなんてしてないっ。お母さんが勝手に私の髪の毛を結ったんでしょ」なんて、癇癪を起こしてお母さんをポコポコ叩いたりした。

 

 僕は何だかいたたまれない、気恥ずかしい気持ちになったりした。

 

 それにいちいちお礼なんかを言われると、なんだか物悲しくて、切ない気持ちになっちゃったりもした。

 だけど、そんな時はユーリヤの子供っぽいところが見られたりして、やっぱりユーリヤも僕と同い年の女の子なんだなって思うことができた。

 

 今思えばユーリヤのお母さんもいろいろ不安なことが多かったんじゃないかって思う。だから初めてできたユーリヤの友達が家に遊びに来ることが、とても嬉しかったんじゃないかって――やっぱり良く知らない土地で、違う国の人間だったりするから。

 

 多分ユーリヤだって同じ気持ちで、カタカナの名前とか、外国人のお母さんとか、灰色の瞳とか、抜けるように白い肌とか、そういった周りと違うことを、小さい彼女なりに敏感に感じ取っていたんだと思う。

 

 たとえ彼女が敏感に感じ取っていた、他人と違うってところの全てが――僕の目には特別な、とても素敵なものに見えたんだとしても。

 

 そういったことの一つ一つを、しっかりと言葉にしておけば良かったんだって、今になって考えてしまうけれど――やっぱり恥ずかしかったりするんだよね。

 

 そんなユーリヤは僕の前では徹底的にお姉さんぶった。

 

 自分の知っていることをいつも僕に聞かせて、それをまるでこの世界で唯一の真実とか、大人たちが必死に隠している陰謀みたいに大袈裟に語った。

 

 僕はいつも彼女の話に夢中だった。

 

「いい? 本当は『アポロ11号』は月に行ってないの――あれはアメリカの陰謀なのよ。アメリカっていう威張りん坊と、アームストロングって嘘っぱちがでっち上げたデマなのよ。証拠だってあるんだから」

 

 そう言いながら、ユーリヤはさも自分が長い年月をかけて調べた彼女自身の偉業を語るみたいに、次から次へと証拠を出して僕を説得にかかった。

 

 アポロに乗った宇宙飛行士が撮影した写真には星が写っていないとか、四km離れているはずの映像が全く同じ背景であるとか、宇宙飛行士や岩などの影が平行になっていないとか、ロケットの噴射によるクレーターが出来ていないとか、旗がはためいているとか、エトセトラエトセトラ。

 

「それに、アメリカ以外にはどこの国も月には行っていないでしょう? 誰かが月に行くとアメリカが月に行ってないってバレちゃうから、衛星で監視しているのよ。きっとミサイルなんかを向けて脅しているんだと思うわ。『北方四島』を賭けたっていいんだから」

 

 ――『北方四島』を賭けたっていい。

 

 これは彼女の口癖の一つだった。

 僕と二人きりの時にしか絶対に口にしない口癖だった。

 

「前にね、お母さんの前でこれを言ったらすごい怒られて、ほっぺたを叩かれたの。その後でお母さんは泣きだしちゃって、とっても参っちゃったんだから」

 

 彼女がやれやれって感じで、さらっとそう口にした。

 

 その時の僕は『北方四島』が何かってことよりも、ユーリヤが叩かれたってことに驚いてしまって――そのことを深く考えたりはしなかった。あの優しいユーリヤのお母さんが、怒ったり泣いたりするなんてことが――僕には信じられなかった。

 

 だから、それ以上『北方四島』なんていう、高い所から垂らした雫が飛び散って、さらに遠くまで飛び跳ねたような『小さな島』については――考える余裕や興味すらなかった。

 

 そして、それを考えるようになった時には、僕たちの間には越えられない『国境線』が引かれてしまっていた。

 

 あの頃から――僕と出会う以前から、ユーリヤの興味や好奇心の全ては宇宙に向かっていた。推力全開で、大気圏を突破しようとするスペースシャトルみたいに、彼女はまっすぐに月へと向かって行った。

 

 ユーリヤの父親がJAXA――宇宙航空研究開発機構――で働いていて、子供のころから宇宙の話を聞かされていたからというのが、彼女が宇宙に行きたがることの大きな理由の一つだったんだけど、もちろんそれだけじゃなかった。

 

 それに気がつけたのは、もっとずっと後になってから――彼女を暗く冷たい宇宙空間にひとりぼっちにしてしまってからだった。

 

 僕の小さな頃って、もう子供たちはあんまり宇宙とか、自然の神秘みたいなものには興味はなかったんだけど――他に面白いものはいくらでも周りに溢れていたから。

 

 僕はどうしてだろう? 

 

 彼女の語る宇宙の話にすごく興味を惹かれた。

 ユーリヤの情熱はすぐに僕にも伝わって、それは僕の情熱にもなった。

 

 ロケットのエンジンは二つ、推力は二倍――

 

 ――月へ向かう『アストロノーツ』は二人になった。

 

 3 外国の女の子

 

 僕たちはいつも宇宙の話をして盛り上がった。

 

 同じ小学校に通っていたので、登下校の最中も、ちょっとした休み時間も、授業中にまで――休みの日も、公園で遊んでいても、音楽を聴いていても、僕たちはどうやったら月に行ってアメリカの陰謀を暴いてやれるのかってことを、夢中で考えた。

 

 クラスの中でユーリヤは人気者だった。

 

 変わった容姿をした『外国の女の子』――本当はハーフで半分日本人なんだけど。

宇宙に詳しくて、みんなが知らないことを少しだけ知っている、勝ち気なおませさん。人懐っこい性格で誰とでも気軽に話せて、誰とでも仲良くなれたから、男の子からも女の子からも好かれていた。

 

 着ている洋服はとにかくお洒落だった。黒くて長い柔らかな髪の毛は、いつも彼女のお母さんが丁寧に櫛をとおして毎日違う結い方をしていたから、クラスの女の子たちはみんなユーリヤのところに集まってお洒落の仕方を興味津々に尋ねていた。

 

 ユーリヤもまんざらではないって顔をして得意げだった。

 男の子の半分はユーリヤに恋していたんじゃないかって思う。

 

 それに何よりみんなの注目を集めたのは、彼女が自分で名乗る『名前』だった。

彼女の苗字はお父さんの方の『藤堂』って苗字だったんだけど――彼女は自己紹介の時、絶対に藤堂って名乗ったりはしなかった。

 

「ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナよ」

 

 ――って、少し澄ました感じで、お高くとまった自己紹介をするのが、ユーリヤ流の自己紹介のしかただった。

 

 クラスメイトは初めて知る外国の言葉に驚き、そして興味津々だった。

 もっといろいろ教えてほしいってせがんだりもされていたし、自分の名前もロシア語にしてほしいなんて子がダース単位で百人くらいユーリヤの所に殺到したんじゃないかって思う。冗談抜きで。

 

 そんな時のユーリヤはまるでクラスの女王様みたいだった。

 

 だけど、ユーリヤ自身はロシア語をそれほど上手く喋ることも、理解することもできていなくて――そのことを心の中では苦々しく、口惜しく思っていた。

 そしてそれが露呈してしまうことを、酷く恐れていた。

 

 ユーリヤは僕と二人でいるときなんかに、ロシア語の辞書をそれとなく眺めて勉強していた。

 

「もう、この辞書百回くらい読んじゃったし、内容なんて全部知ってるんだけど、正確な方がクラスのみんなも喜ぶでしょう? だから復習してるの」

 

 これがユーリヤのもっぱらの言い草だった。

 

 僕は彼女からこの台詞を千回くらい聞いたと思う。

 それに、こっそりと母親に自分の知らない単語の意味を尋ねたりしていた。それを直ぐに僕の目の前で披露したりするものだから、彼女がロシア語に不慣れで、それを必死に隠していることに気がつくこと自体は、難しくなかった。

 

 僕はそのことを絶対に口にしたりはしなかった。

 徹底的に気がついていないふりをした。

 

 それと、ユーリヤは生まれつきに体が弱かった。

 

 体育を毎回見学していた。

 プールにも入らなかったし、長い間日差しを浴びているのもいけないってお医者さんに言われていた。

 

 だから僕がたまに体育で活躍すると、ユーリヤはいつも不機嫌そうに唇をつんと尖らせて、僕に癇癪を起こしたりした。そうなると彼女は本当に手がつけられなくて、僕は毎回水をかけられた猫みたいにびっくりさせられた。

 

「私のスプートニクなんだから、私より速く走っちゃダメだし、私よりも運動ができてもダメなの。いつだって私の後ろを追ってこなきゃいけないんだから」

 

 それは無茶苦茶な言い草なんだけど――この頃の僕は本気で彼女よりも速く走ったり、運動が出来たりしちゃいけないんだって思っていた。

 

 だから、僕もユーリヤと同じように体育を見学出来たり、ユーリヤと同じくらい体が弱ければよかったのにってよく考えていた。本当に子供っぽい話なんだけどね。

 

 一度癇癪を起こしたユーリヤは、なかなか機嫌を直してくれず、声をかけても返事もせずに、僕の顔をろくに見ようともしてくれなかった。僕はあてもなくただひたすらに歩く彼女の背中を無言で追いかけたり、何も言ってくれない彼女の機嫌が直るまで、一時間でも二時間でも待ったりした。

 

 そうなった時のユーリヤの背中はいつも弱々しく震えていて、振り返った時にそこに僕がいなかったらどうしようって怯えているのが、幼い僕にだって痛いほど伝わっていた。

 

 だから、振り返った時にユーリヤが見せてくれるホッと安心した表情と、飛び切りの笑顔が僕はたまらなく嬉しかった。

 

 彼女のその笑顔が見られるなら、僕は何時間だって彼女の背中を追いかけて、何日間だって彼女の背中を眺めていたって構わないって本気で思っていた。

 

 ユーリヤの家ではよく映画を見せてもらったし、音楽も聴かせてもらった。たまに二人で公園へ出かけて行ったりもした。

 

 彼女のお気に入りの音楽は『Fly Me to the Moon』だった。

 

 古いジャズの曲で僕には何がいいのかさっぱりわからなかった。

 ユーリヤだってジャズの良さなんてこれっぽっちも分かっていなかったと思うんだけど、大人ぶってそんな曲をセレクトして僕を驚かせた。

 

 彼女が口ずさむその曲が僕は好きだった。

 

 映画はSFが多かったんだけど、彼女の好みは結構偏っていて、少しずつ歳を重ねて過激になっていく僕の趣味からすると退屈なものが多かった。

 

 ユーリヤは人間同士が宇宙で争ったり、戦争をしたりしないものが好きだった。

E.T.』、『コンタクト』、『未知との遭遇』、『2001年宇宙の旅』あたり。戦争みたいなものがあるにしても、エイリアンとかの宇宙人を人類が協力し合って倒していく、そんな映画を好んだ。『インデペンデンス・デイ』、『宇宙戦争』あたり。

だから『スター・ウォーズ』みたいに、知性のある者同士が宇宙で戦争を繰り広げるような映画は大嫌いだった。日本のロボットアニメ全般を親の仇のように憎んでさえいた。

 

 だからそういった類の映画やアニメを、僕は自分の家でこっそりと見て、それを見たことさえユーリヤには伝えなかった。

 

「宇宙に出てまで人が争うなんてナンセンスよ」

 

 一度お互いの好みについて語った時に、ユーリヤは憤慨しながら言った。

 

「だって宇宙には国境もないし、宗教もない、肌の色の違いだって関係ないのよ。神様だっていないんだから。それなのに、この狭い地球の下らないことを宇宙にまで引っ張っていってどうしようっていうの? 本当に想像力の欠片もないんだから」

「でも、『ライトセイバー』とかカッコいいじゃん」

 

 この時の僕は、初めて見たスペース・オペラに感動して、負けじと言い返した。

 

「僕も『ジェダイの騎士』になってフォースが使えたらいいのにな。フォースの共にあらんことを」

「馬鹿みたい。『ダークサイド』に堕ちちゃいなさいよ」

「それにロボットとかも操縦してみたいな。大気圏に単機で突入するとかすごくない?」

「カッコよくないし、全然すごくない。重力の井戸に魂を縛られているだけよ。男の子って本当に子供だから嫌になっちゃう」

 

 ユーリヤは不機嫌そうに言ってそっぽを向いた。

 

「それに、宇宙は静かじゃなきゃダメなの。平和じゃなきゃ、絶対ダメなんだから」

 

 そう言ったユーリヤの言葉はどこか切実で、どことなくすがりつくようだった。

 彼女の心の中に、少しずつ暗い影みたいなものが差しこんでいて――彼女の中に広がる空を曇らせはじめていた。

 

 

 4 無重力

 

 小学生の高学年に上がり中学生を目前に控えると、僕とユーリヤの関係はどんどん複雑になっていた。僕たちの関係がというよりは、僕たち自身が複雑になっていったんじゃないかって思う。

 

 この頃になるとユーリヤはもうアポロ11号のインチキや、アメリカの陰謀の話なんてしなくなり、もっと実用的で専門的な宇宙についての知識を学び出していた。

 

 彼女はどんどんと先鋭的になっていった――とにかく先へ先へと、未知の空間を切り開き突き進んでいるように見えた。

 

 僕はというと、彼女のその日に日に増していく情熱とそれが齎す推力に半ばついていけずに、必死にしがみついているだけで精一杯だった。

 

 アストロノーツとしては完全に失格で、スプートニクとしてはボロボロだった。

実物のスプートニク1号は宇宙空間に打ち上げられた後、五十七日後に大気圏に再突入して消滅した。

 

 むしろスプートニクとしてはもったほうなんじゃないかって思う。

 

 それに小学生の高学年にもなって、女の子といつまでも登下校をしていたり、女の子の背中にくっついて歩いているというのは、なかなか恥ずかしいことで――そのことで周りから冷やかされたり、からかわれたり、時にはいじめられたりと、悲惨で情けない思いをすることも多かった。

 

 ユーリヤも今までは自然とクラスメイトに溶け込み、馴染めていたはずなのに――段々とそれが出来なくなっていた。

 

 彼女の妙に大人ぶった澄ました態度は、時折周りの女の子から反感を買うようになった。次第に女の子たちに除け者にされたり、些細で心無いあてこすりのようなことを言われることも多くなった。

 

 ユーリヤはそれを取るに足らない、まるでどうでもいいことのようにあしらい、必死に気にしないふりをしていた。

 

「もう少し、クラスに溶け込んだ方がいいんじゃない?」

「溶け込んでどうするのよ?」

「仲よくすればいいよ」

「今より余計に反感を買うだけよ」

「少なくとももう少しみんなに合わせるとかして、妙に澄ましたりするのはやめた方がいいんじゃないかって思うよ」

 

 僕が心配してそんな会話をすると、ユーリヤは毎回激怒した。僕はめげずに声をかけ続けた。ぴたりと閉じてしまった扉を叩き続けるみたいに。

 

 だけど、その怒りがある境界線を越えた時、彼女は突然金切り声を上げた。

 そして、いつも以上に興奮して言葉を捲し立てた。

 

「うるさい。うるさい。うるさい。うるさいのよ」

 

 それは踏みいれてはいけない場所に足を踏みいれた――そんな感じの怒り方と拒絶の仕方だった。

 

「何で私があんな子供っぽい、程度の低い子たちに合わせなきゃいけないの? 私がみんなと違う目の色をしているからなんだっていうの、私がみんなと違う肌の色をしているからなんだっていうの、私がロシア人だったら、なんだっていうのよ。本当に下らない。みんな子供なのよ。馬鹿みたい」

 

 その時初めて、僕はユーリヤが自分のことを〝ロシア人〟と言ったのを聞いたと思う。

 

 彼女が発したその〝ロシア人〟という言葉は、とても冷たかった。

 

 まるでユーリヤがどこか遠い場所に――飛び散った雫の先、寒く閉ざされた声も届かないどこかに行ってしまったんじゃないかって、すごく不安になった。

 

 そして、そんなふうに一度何かがちぐはぐになってしまうと、それを元通りにすることはもう無理なんじゃないかって思えた。

 

 僕たちは複雑にこんがらがってしまったんだってことを、僕は嫌というほど思い知らされた。一度絡まった糸を解こうとすると、余計に絡まってしまうみたいに。それはもう二度と元に戻らない類の絡まり方みたいだった。

 

 そんな状況にどうしたらいいのか分からなくなった僕は、小学六年生の最後の運動会――百メートル走を全速力で走ろうって、漠然と思いついた。

 

 毎日放課後に一人で練習をしたりして、とにかく早く走るんだって――何度も何度も自分に言い聞かせた。

 

 多分、いろいろうまくいかないこと、ちぐはぐなこと、こんがらがってしまったことを忘れたくて――そんな下らないことの全てを振り切りたかったんだと思う。

 

 そして、もう一度ユーリヤの背中に追いつきたかった。

 だから、全速力で走ろうって思い立った。

 

 ピストルの音が鳴って駆けだした僕は、ユーリヤと出会ってから初めて本気で走った。

 

 全速力で走るトラックは、何だか特別な場所のように見えた。

 足と腕が勝手に動いた。どうやって走っているのかなんて全然分からないんだけど、それはとても自然でそしてとてもスムーズな動作だった。

 

 僕の体は前へ前へと進んで行った。

 

 僕の体はとても軽くて、まるで無重力の空間を、月の上を自由に飛び跳ねているような気さえした。

 

 それはとても心地の良い一瞬だった。

 ゴールテープを切った後、大きく肩で息をして流れる汗が垂れていくのを感じた時、僕は不意に気がついた。

 

 ああ、僕は大きくなっていたんだなって。

 きっと、今の場所に留まっていられないほどに、僕は大きくなったんだなって。

 

 今までユーリヤと一緒に、まるで双子のように一緒に成長してきた僕の体が、彼女よりも一回り大きくなっていたんだってことに――僕は初めて気がついて、自覚した。

 

 それはとても悲しいことだった。

 

 僕と彼女のその差が、まるで僕と彼女を隔ててしまう大きな壁のように思えたから。

 

 僕の立っている地面だけが盛り上がり、彼女を置いて高く聳えていく。

 その隔たりを僕よりも感じていたのは、きっとユーリヤだった。

 

 一等賞の金メダルを手にした僕は、運動会を見学しているユーリヤに一秒でも早く会いたくて駆けて行った。

 

 彼女との距離を少しでも縮めたくて、僕たちの前に聳えた壁を壊したくて、とにかく僕はユーリヤの所に急いだ。

 

 見学席に一人ぽつんと座っていたユーリヤは、僕の顔を見て直ぐにそっぽを向いた。彼女の機嫌が悪いことは一目瞭然だった。彼女の機嫌が直るまで彼女の隣に座って彼女の背中を眺めているのが、僕達のいつものやり方だった。

 

 だけど生まれて初めて手にした金メダルの喜びに興奮していた僕は、我慢できずにユーリヤに声をかけた。

 

「ねぇ、僕の走り見てた?」

 

 ユーリヤは背中を向けたままだった。

 

「一位だったんだよ」

 

 僕はめげずに声をかけた。

 

「ユーリヤ、ほら見てよこの金メダル」

 

 突然振り返ったユーリヤの灰色の瞳には、何だか得体の知れないものが渦巻いていて、僕はその瞳に絡め取られ、呑み込まれてしまった。そこに込められた感情は、複雑な斑模様を描いていた。

 

 僕には彼女が怒っているのか、悲しんでいるのか、嫉妬しているのか――泣きたいのか、叫びたいのか、全く分からなかった。

 

 彼女自身も、自分の感情をどう扱っていいのか分からずにいるみたいだった。

 ユーリヤは僕が手に持っていた金メダルを勢いよくひったくると、それを地面に叩きつけた。

 

 僕は驚いて何も言えず、ユーリヤは一瞬「どうしよう」って顔をしたけど――もう後には引けないって感じで唇をつんと尖らせた。

 

「何よ……こんなもの。ただの紙で作ったガラクタじゃない。それに、たかが駆けっこで一位になったのがそんなに嬉しいの? 本当に子供なんだから。馬鹿みたい」

「そんな言い方……しなくたって」

「本当のことでしょ」

「でも、一生懸命走ったんだよ」

「たかが運動会ぐらいではしゃいで、子供じゃない」

 

 彼女はそう言うとつんとそっぽを向いた。

 

「自分なんかいつも体育見学して、ろくに走れもしない癖に」

「何ですって?」

 

 僕の言葉に彼女は目を剥いて反論した。

 

「別に……体育なんて出たくないわよ、走りたくなんて全然ないんだから。そんなのちっとも面白くないし、意味なんてないじゃない。それより、あなたは私のスプートニクなんだから、私より先に行って、私より速く走ったりしたらダメなんだって……約束したじゃない」

 

 金切り声を上げたユーリヤの灰色の目は滲んでいた。

 声はこれ以上ないくらいに震えていた。

 

 だけど、僕も興奮していてもう歯止めがきかなくなっていた。

 

スプートニクって……まだそんなこと言っているのかよ」

「え?」

 

 ユーリヤの表情が一瞬で凍りついた。その後で、線の細い体がバラバラになってしまいそうに震えた。まるで大きなトンカチで叩き割られてしまうみたいに。

 

 そんな青ざめた彼女を見た僕は、どこか勝ち誇ったような気持ちになっていた。自分の感情をどう扱っていいのか分からずにいた。

 

スプートニクなんか知らないよ。僕の方がユーリヤより速く走れるんだ。もう、僕はユーリヤのスプートニクなんかじゃない」

 

 僕はとても意地が悪くなっていた。心が凍りついてしまったみたいで、そして砕けてどこかに飛び散ってしまったみたいだった。

 

「ユーリヤの方が、全然子供だよ」

 

 それを言った瞬間に――何かが決定的に壊れてしまった音が聞こえた。

 僕の震える手の中に、何かを壊してしまった時の、あのたとえようのない感触が、気持ちの悪さがあった。

 

 僕たちが必死になって積み上げてきた、築き上げてきた宇宙へ向かう塔は、そこで完全に壊れてしまった。

 

 二度と元に戻ることができないほど粉々に。

 

 そして離れて行ってしまうものに、バラバラになってしまうものに手を伸ばせるだけの勇気が、あの頃の僕には無かった。

 

 泣き出して、来賓席の方に駆け出していくユーリヤの小さな背中を、僕はただ茫然と見送ることしかできなかった。

 

 あんなに速く走れたはずの僕の足が、あの時はただの一歩も踏み出せなかった。

 

 地面に転がっている金メダルを拾い上げた時、僕はどうしてユーリヤに一秒でも早く会いたかったのか、その理由を思い出した――

 

 ――この金メダルを、彼女にあげたかった。

 

(完全版2に続きます)

 

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kakuyomu.jpこちらでこの短編の続きを書いています。よかったら読んでみてください。

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