iの終わりに~31話(完結)
i 子供たちは夢を見る――おはようを言うために
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――でも、どうして私はこんなことになってしまったんだろう? どうして何もかも手放して、何もかも捨て去って、何もかも諦めてしまったんだろう? どうして、私は一度も手を伸ばせなかったんだろう? 本当の気持ちを伝えられなかったんだろう? やめよう。こんなこと考えても、どうしようもないもの。思い出したことの全てに後悔しかなかったとしても、私たちの小さな冒険だけはほんもの。だから、私にはそれで十分、
言葉は延々とこぼれてくる。
暗闇の中全てに響き渡るように。
今まで押し込めていたいたもの、押し止めていたものの全てが溢れ出してしまったみたいに。
――嘘。嘘つき。どうして嘘を吐くの? 全然満足してなんかないくせに、ぜんぜん十分だなんて思ってない癖に、本当は、
――やめて。私には、私なんかには、あれで十分なの。ぜんぶ諦めてきた。ぜんぶ捨ててきた。ぜんぶ手放して来た。今さら思い出させないで。これでよかったのよ。ぜんぶ、これでよかったのよ。
――また嘘ついている。いつだって嘘ばっか。神さまが贈り物をしてくれた? 笑っちゃう。神さまなんて信じてない癖に。それに、ずっと待ってたんじゃない? あの古い図書館の扉が開くのを。
――お願い、やめてっ、
――本当に呆れちゃう。本当は手を伸ばしたかったのに、手を伸ばしてほしかったのに、呼びたかったのに、呼んでほしかったのに、ずっとそばにいたかったのに、ずっとそばにいてほしかったのに。ぜんぶ嘘をついて台無しにしたんじゃない。
――もういいのよ。ぜんぶ終わったのよ。
――また嘘。終わったなんて言って、みれんしかないくせに。今だって自分に嘘をついて傷ついてる。どうしようもない自分を情けないって思ってる。惨めな自分をどうにかしたいって悔しがっているのに、どうして終わったなんて嘘をつくの?
――じゃあ、どうしたらいいのよ? どうすればよかったのよ? 分からないのよ。手を伸ばしたくても、この手が震えて動かないの。名前呼びたくても、彼の名前も知らないの。そばにいて欲しくても、怖いの。お母さんみたいにどこかに行ってしまったらって考えたら、怖くてどうにかなりそうなの。彼が私の前からいなくなったら、そんなの、私、耐えられない。でも、私なんかのそばに、いつまでもいてくれるわけない。それだったら、いっそ、
――自分から逃げ出しちゃおうって? 本当に子供ね。どうしようもなく幼稚な考えよ。いつまでも受け身のままで、誰かの顔色ばかりうかがって、しまいには一人でかってに疑って、惨めったらしく卑屈になって、それで最後には逃げ出して。本当にどうしようもないわよ。バカよ。本当に、バカみたい。最低。
――分かっているわよ。私んなんて最低よ。バカなのよ。そんなのこと、私が一番よく分かっているわよ。大っ嫌い。大っ嫌い。大っ嫌い。大っ嫌い。大っ嫌い。私なんか大嫌いよ。私だって、もっと素直な子になりたかった。愛想がよくて、気が利いて、可愛く微笑んだりできる、そんな子になりたかった。でも、今さらどうしようもないじゃない?
「フィン――」
暗闇に沈んでいく彼女がいた。
ハックルベリー・フィンが、その扉の奥にいた。
僕は彼女の名前を呼んで手を伸ばした。
彼女は僕を見上げた。
けれど彼女は手を伸ばさなかった。
彼女は膝を折り、小さく体を丸めながら闇に沈んでいく。
深い井戸の底に沈んでいくみたいに、ゆっくりと深い夢に落ちていく。
その表情は闇に霞んでいた。
彼女が、どんな顔をしているのか分からなかった。
曇りガラス越しに彼女を見つめているみたいに――笑っているのか、泣いているのか、それとも無表情のままなのか、それすらもわからなかった。
彼女の素敵だった白い髪の毛は、黒に――暗闇色に染まっていた。まるで闇に染まった彼女の髪の毛から、この底なしの暗闇が溢れ出しているみたいに。
その黒とは対照的に、彼女の身にまとっているワンピースは白かった。
何もかもを塗りつぶしてしまうような暴力的な白色だった。
それなのに、なぜかお葬式に飾る白百合の花に見えた。
折れて頭を垂れた白百合に。
「来ないで」――来て。
彼女はあらん限りの声を振り絞って叫んだ。
感情をでたらめに扱うみたいに。
「これ以上、私に近づかないで」――そばにいて。
彼女の言葉がこぼれた。
彼女の言葉に感情が籠っていたことが、僕は嬉しかった。
抑揚を取り戻し、押し殺していた感情を解き放った彼女の声や喋り方は、とても魅力的で、とても素敵だった。
「一緒に還ろう」
僕はおもいきり手を伸ばした。
「還れない。還りたくない」――還る。還りたい。
彼女は抱えていた膝を解き、僕を見上げながらあらん限りの声を振り絞って、そう拒絶の言葉を――了承の言葉を叫んだ。
多分、どちらも彼女の本音なんだと思った。
だから、僕は僕の信じる彼女の言葉に耳をかたむけた。
「どうして私にかまうの? もうこれ以上、私にかまわないでよ。私はぜんぶ諦めてきた。ぜんぶ捨ててきた。ぜんぶ手放して来た。あの小さな冒険だけで十分だった。だから、これ以上、私に夢を見させないで。目を覚ました時につらくなるだけなのに、こんな気持ちにしないで。あなたといるとつらいの、いたいのよ――こんな気持ちになるの嫌なの、させてしまうのも嫌なの。あなたが、私の前からいなくなったら、そんなの――」嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。ぜんぶ嘘。もう自分が何を言っているのか分からない。何が言いたいのかもわからない。だけど、ぜんぶ嘘なの。
「フィンといると僕もつらいよ。君といると僕もいたいんだ。どうしらいいのかわからないし、君が何を考えいるのか知りたくて、君の顔色ばかりうかがっちゃうんだ。そして、やっぱりどうしたらいいのか、どうすればよかったのか分からなくなっちゃうんだ」
僕の正直な言葉に、彼女がひどくショックを受けいることが暗闇を通して伝わってきた。
暗闇には彼女の感情の全てが流れ出していた。
闇はいっそうに濃くなり、彼女を深い所に沈めていった。
「だけど、僕は君と一緒にいたい。僕は君のそばにいたいんだ。フィンに“どうして”って尋ねられた時、僕は言葉にできなかった。だけど――」
「言わないで。聞かせないで」――言って。お願い、もっと大きな声で聞かせて。
「フィンが好きだ。僕は君に恋してるんだ。だから。ずっと僕のそばにいてほしい」
告白を口にした瞬間――白い刃を振るったような光が差し込み、闇で霞んで見えなかった彼女の表情を晴らした。
雲間から陽の光が差し込んだみたいに
彼女は泣いてた。
顔を真っ赤にして、子供みたいにさめざめと泣いていた。
そのことが嬉しかった。
こんなに嬉しいことが、他にあるんだろうかって思えるほどに。
「私、嬉しくて死んじゃいそう。もう、幸せすぎてどうにかなっちゃいそう。でも、やっぱり、私、還れない。怖いの。怖くて、あなたの手をとれない」
彼女はいやいやと首を振りながら、ゆっくりと闇に沈んでいく。
「とれるよ。届くよ。僕一人じゃ届かなくても、フィンが手を伸ばせば、僕たち二人なら届くんだ。ほら、手を伸ばして」
僕たちの距離は縮まらなかった。
たぶん、この距離は僕たちの心の距離。
彼女が手を伸ばさなければ、この距離は埋まらない。
「僕はもう、フィンのそばから離れたくないんだ。ずっと君の隣にいたいんだ。君はからっぽなんかじゃない。僕がいる。僕はフィンがいないと、何だか自分が半分になっちゃったみたいなんだ」
彼女は少しだけ手を動かした。
ためらいがちに震える手を胸のあたりに持っていき、そこで両手を組んだ。
涙は今もこぼれ続けていた。
「私も、あなたがいないと自分がからっぽに――ううん、そう、半分こ。あのサンドウィッチみたい。きっと私たち、二つで一つ――二人で一人になっちゃったのね。でも、私には無理なの。これ以上、あなたの時間を奪いたくないの――」
僕たちはもうずいぶん深いところまで沈んでいた。
どれだけ時間が過ぎたのかもわからなかった。
彼女はその時間の膨大さに怯え、途方に暮れて強く組んだ手を解けずにいた。
その間にも、どんどんと彼女は闇に沈んでいく。
そして、僕も沈んでいった。
「僕の時間なんて全部君にあげたってかまわない。現実でも、夢の中でもいい――僕とフィンが座れるくらいの、“小さな椅子”をつくろうよ。そこに二人で座ろう。僕たちは誰の椅子も奪わない。誰かの椅子を羨んだりしない。だから、僕を信じて手を伸ばして――」
「あなた、バカよ。ほんとに。もう、ほんとうにバカ。でも、ほんとうに――」
呟いた彼女はせいいっぱい僕に手を伸ばした。
僕は彼女の手を取り、彼女を闇から――井戸の底から引き上げるように、僕の胸の中に迎え入れた。
ふれた手は温かかった。
ふれ合う頬には温もりがあった。
僕たちは痛いくらいに強く抱き合ったまま、頭からゆっくりと夢の底に沈んでいった。
ゆっくり、ゆっくり、くるくると回りながら。
まるで踊りを踊っているみたいだった。
これが夢の世界でも、偽りの肉体でも、夢の中の出来事だとしても、ここにある二つの魂の触れあいは、この魂の暖かさは本物だ。
ぜったいに。
「ずっと君の声が聞こえてた。嬉しかった」
「私も、あなたが私を呼ぶ声がずっと聞こえてた。来てくれたって分かった時、ほんとうに嬉しかった。私、ずっとあなたに、そんなふうに言ってもらいたかった。お願い、もう一度言って」
「フィンが好きだよ」
「もう一度、――ううん、今度は、私が。私も、あなたのこと大好き。こんな気持ちになったの初めてで、どうしたらいいのかわかないくらい」
「僕もだよ。でも二人ならきっと大丈夫だよ」
「ありがとう」
その“ありがとう”は、この世界で一番うれしい“ありがとう”だった。
僕たちは互いの体温を測るように、おでこをあてて見つめ合った。
彼女の濡れそぼった睫毛についた涙の雫を拭った。
彼女は目を閉じて心地よさそうにそれを受け入れた。
暗闇はいつの間にか白んでいた。
僕はこの場所を懐かしいと思った。
かつて新世界と呼ばれた僕たち儚きの夢の後は――白い靄と、彼女の流した涙の海に沈んでいた。
いつの間にか彼女の髪の毛が白色に、僕の大好きな髪の毛の色に戻っていた。
僕たちはおそろいの夜色の制服に身を包んでいた。
出会った頃みたいに。
「髪の毛、元に戻っちゃった」
少し恥ずかしそうに口にした。
「僕はそっちの方が好きだよ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、このままでいい」
暗闇の晴れたこの場所を眺めながら、僕は一つだけやるべきことを、やりたいことを思い出して、そして願った――楽園でも、新世界でもない場所を。
僕が願うと、穏やかな海に囲まれた“ちいさな庭”ができた。
その庭に、真っ赤な林檎の実が一つだけ実った大きな樹を生やして、僕たちはその木の木陰に腰を下ろした。
手を繋いだまま。
「僕たちは、この場所に、この夢の中にいつまでだっていられる。だけど、僕はやっぱり還りたい。フィンと一緒に現実に還りたいんだ」
僕を見つめた彼女の顔はとても澄んでいて、熱を帯びた黒い双眸が全てを受け入れますと告げていた。
大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちて、海と夢の一つになった。
「かえろう。あなたと一緒に、私もかえりたい」
優しい風が僕たちの背を押すように吹いた――その風は、“ありがとう”と告げていた。
僕は心の中で“また、いつか”と言葉を返した。
目指した空には星が輝きはじめていた。
隠れていた星が顔を出したみたいで、今まで僕たちを見守ってくれていたみたいだった。
幾千幾億の星たちは眩い光をはなっていた。
流星の涙が宇宙に流れて、全ての星が巡り合っていた。
――“ここにいるよ”と、“ありがとう”を告げているみたいに。
その星の輝きを、瞬きを見た時、僕はかたく閉じられたクローゼットの扉が全て開いた――そう思うことができた。
その星の一つ一つに子供たちの夢の形が、夢の営みがあるみたいだった。
そう思えるだけで、星空はいっそう輝いて見えた。
その流れる星と一緒に還りたいと思った。
「きれい」
「フィン、本当にきれいだ」
僕は彼女の顔を覗き込んで言った。
綺麗だった。
星の光で化粧をしたみたいに。
星の光を浴びた彼女の白い髪の毛は金色にも銀色にも輝いて見えた。
「うれしい。ねぇ、もし目を覚ましたとき、私がおばあちゃんになっていてもきれいって言ってくれる?」
「もちろん、何度でも言うよ」
彼女は笑った。
星が瞬いたみたいに笑った。
「フィン、今さらだけど――君の本当の名前を教えてよ。僕たち、自己紹介からはじめよう。僕の名前は――」
彼女は僕の口を塞ぐように人差し指をあてた。
彼女は首を横に振って口を開いた。
「じつはね、私一度だけあなたに名前を呼んでもらっているの。だけど、それは私たちが目を覚ました時にしましょう――私たち目を覚ましたらお互いに“おはよう”と“おかえりなさい”を言うの。その後で、私たちお互いの名前を呼びあうの。それが、私たちの新しいはじまり」
彼女の笑った顔が眩しかった。
僕も頷いて笑った。
彼女の手を握りながら僕は思った。
きっと、これからも僕たちの人生はひどく大変なんだろうと。
ひどく困難で、ひどく不幸な目に遭うんだろうと。
目を背けたくなったり、逃げ出したくなったり、全てを諦めたくなったりするんだろうと思った。
たぶん何度も、そんなことを考えてしまうと思う。
それでも、僕は何度でも目を覚ます。
たとえ目を覚ました時に、そこが僕の知っている世界とはまるで別の世界になっていたとしても。
それでも、僕は何度でも目を覚ます。
きっと、僕たちは“おはよう“と“おかえりなさい”を言うために、夢を見るんだ。
僕たちが目を覚ました時、そこがどんな世界なのかは分からない。
だけど、今は目を覚ますことが待ち遠しかった。
続いていく人生が嬉しかった。
彼女が僕の隣にいる、それだけで全てが満たされた。
これがおしまいじゃなくて、はじまりだということが、何よりも嬉しかった。
夜空に“おしまい”は描かなかった。
だって、これから目を覚まして――
――おはようって言うんだから。
「おかえりなさい」
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