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青い春をかける少女~29話

青い春をかける少女(完結済み) 小説

29 失恋

 

kakuhaji.hateblo.jp

 第一話はこちらから読めます ↑

 

 演奏を終えた私は、わけも分からず泣いていた。

 

 あらゆる感情が溢れすぎていて、自分がどうして泣いているのかも分らなかった。やりきったという達成感からなのか、吐き出したという解放感からなのか、夏緒さんと一緒に演奏できたという嬉しさからなのか、私のこの思いは届かないだろうという失望からなのか、それでも演奏をやめなかったという希望からなのか、私にはさっぱりわからなかった。

 

 だけどただ一つ、私は自分の胸の中のものをすっかり吐き出してしまった、それだけは確かだった。

 

 頭の中は真っ白だった。

 涙は止まらなかった。

 

 夏緒さんはそんな私を見て優しく微笑んでくれた。

“良い演奏だった”と言ってくれた。たったそれだけのことがどうしようもなく嬉しくて、私はどうしようもないほどの幸せに浸ることができた。

 

 夏緒さんは私の頭に優しく手を置いて、私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。コーヒーの匂いにまぎれて男の人の汗のにおいがした。

 

 私は今直ぐにでもその胸に飛び込んで、その胸の中で思いきりに泣きたいと思った。

 だけど、それはどうしてもできなかった。心の中で強引にその胸に引き込んでほしいと、今直ぐ抱きしめてほしいと思ったけれど、それは叶わなかった。

 

 とても近くにいるのに、とても遠い距離を感じてしまう、それが私と夏緒さんの距離だった。

埋めることができない春から夏までの距離。

 

 でも今は少しだけ、この届かない距離を好きになれそうだった。

 

 春はいつだって夏の背中を追っている。

 私も、私の夏の背中を追っている。

 苦しくて甘いこの距離が、今は少しだけ好きになれそうだった。

 

「今日は、久しぶりに真面目に楽器を演奏した気がするな」

 

 テーブル席に腰を下ろした夏緒さんは、私を見つめてそう呟いた。

 

「まだこんなふうに演奏できるなんて、こんな気持ちになれるなんて思ってもみなかったな」

 

 テーブルの上には、汗をかいた冷たいコーヒーが二つ置かれたままで、私も夏緒さんもコーヒーには口はつけていなかった。

 さっきまで子供のように泣きじゃくっていた私は、今ではだいぶ落ち着いていた。興奮や高揚もおさまり、何かを話そうとしている夏緒さんの言葉を静かに待つことができた。

 

「実はさ……ハルキさんに結構きついことを言われたんだ」

「きついこと?」

「この間、ハルちゃんを泣かせて一人で帰らせちゃった後に」

「もしかして……私のせい?」

 

 私は不安になって言った。

 夏緒さんは困ったような顔で首を横に振った。

 

「いや、ぜんぶ僕のせいだよ。ハルキさんにそれを指摘された時……かなりショックだったんだ」

「ハルキさんに……なんて言われたの?」

「他人の中に映る自分の姿に向かって投げかける言葉ほど、虚しいものはないってさ。それに、それはただ虚しいだけじゃなくて、投げかけられた誰かと、自分自身の両方を傷つける悲しい言葉だって」

「どういこと?」

 

 私には夏緒さんの言葉の意味がよく分からなかった。

 

「つまりさ、僕はハルちゃんを鏡にしていたってことだよ」

「私を、鏡に?」

「そう。つまり、僕はハルちゃんの中に見える僕自身の姿に向かって言葉を投げかけていたってことだよ。ハルちゃんに向かって言った受験の話や、将来の話、恋愛の話なんかは、無自覚に僕自身に向けて言った言葉だった。いや……無自覚じゃないな。僕はそのことを意識していたのかもしれない。たんなる八つ当たりみたいなものだったのかもしれない」

夏緒さん……私、夏緒さんの言っていることがよくわからない」

 

 私が困ったように言うと、夏緒さんも困ったような顔をした。

 そしてとても傷ついたような顔した。

 

 私の言葉が夏緒さんを傷つけているのかもしれないと思うと心苦しかった。

 でも、私は夏緒さんの話を最後まで聞きたかった。

 少しでも夏緒さんのことを理解したかった。

 

「本当は、こんな話をハルちゃんにするべきじゃないんだ」

「どうして?」

「たぶんハルちゃんは僕にがっかりするだろうし、失望させるだろうから。いや、もしかしたら僕はハルちゃんをがっかりさせたいのかもしれないしな。失望してもらいたいのかもしれない」

 

 夏緒さんはどうしたらいいだろうと、いろいろな感情が混ざり合った斑模様の表情を浮かべていた。

 私はためらわずに口を開いた。

 

「私は、夏緒さんのことを何でも知りたい。夏緒さんのことを何でも教えてほしい。私、ぜったいに夏緒さんにがっかりしたり、失望したりしないよ」

 

 私の言葉を聞いた夏緒さんは、真剣な表情で私を見つめた。

 まるで私の瞳に宿った決意みたいなものをしっかりと確かめるみたいだった。

 

「僕は、いつまでもハルに……その眼差しで僕を見てもらいたいのかもしれないな。それと同時に、その眼差しで見られることに、そろそろ僕は耐えられなくなってきたのかもしれない」

 

 夏緒さんは自分自身に尋ねるように言った。

 その表情はとても真面目だった。

 大人の男の表情だった。

 

「ようするに、僕はハルが思っているような立派な人間じゃないし、憧れを抱かれるほど素敵な年上のお兄さんってわけでもないってことなんだ」

「そんなこと――」

 

 白状するように言った夏緒さんの言葉を、私は直ぐに否定しようと声を上げた。

 だけど夏緒さん視線だけでそれを制止して、話を続けた。

 

「しょうじき……僕もこの先どうしていいか分からないんだ」

「この先どうしていいかわからないって……夏緒さんが?」

 

 私はよく意味が分からずに尋ねた。

 

「ああ。大学院に上がったのだって、とりあえずだったんだ」

「とりあえず?」

「大学生活を続けて、モラトリアムを延長することで、社会ってやつに出るのを遅らせてみただけなんだ。ようするにさ、僕は世の中から目を背けているだけなんだよ」

 

 夏緒さんの声音は自虐的だった。

 まるで自分を嫌悪しているかのようだった。

 

「正直、自分が社会ってやつに出て行って、そこでうまくやれるのかどうかぜんぜんわからないんだ。そもそも僕に何ができるのかもまるでわからない。何をやっても正しくない気がするんだ」

「ウソだよ。だって夏緒さんは楽器も上手だし、絵も上手だし、素敵な家の設計だってできるし、作曲だってできるし……なんだってできるよ」

 

 私は夏緒さんの言葉を否定するように言うと、夏緒さんはなおさら傷ついたような表情を浮かべた。

 

「前にも言っただろ? それなりに見栄えよくこなしているだけだって」

「そんな、そんなこと――」

「よくよく考えてみれば、僕の今までの人生のぜんぶがそれなりに見栄えよくこなしてきただけの、まるで張りぼてみたいなものだったのかもしれない」

 

 私は何も言えなくなっていた。

“そんなこと絶対ない”って心の中では叫んでいた。

 なんだか、私は泣きそうだった。

 

「ハルが言ってくれた僕の可能性みたいなものを、僕も何度も考えてみたんだ。音楽を続けていく。絵を描き続けていく。誰かの家を設計していく。どれを選んでも、僕には上手くやっていく自信がないんだ。そもそも自分の人生もろくに設計できないような奴に、他人の家の設計ができるとも思えない」

 

 こんなにも心細そうな顔をする夏緒さんを、私は今まで見たことがなかった。

 こんな迷子の子供のような夏緒さんを、私は今まで知らなかった。

 

「それで、最終的には〝夜間飛行〟で気ままに働いて行くのもいいんじゃないかな……なんて思ったりしてさ」

「それって……私と?」

 

 私は驚いたよう言った。

 

「そう。受験に身が入らずに“夜間飛行”に通い詰めているハルの姿が、僕自身に重なって見えたんだ」

 

“夜間飛行”の帰り道に夏緒さんに言われた言葉を思い出して、私はようやく夏緒さんの言いたいことが少しだけわかってきた。

 

「僕は自分のことを棚に上げて、ハルをこの“夜間飛行”から切り離した方がいいって、いつまでもこの場所に留めていちゃいけないんだ……なんてことを考えてたんだ。身勝手だろ?」

「そんなことないよ。夏緒さんは私のことを心配してくれてたんでしょ?」

「それもあるけど、理由はもう一つあるんだ」

「もう一つ?」

「そう。この間、あの雨の日に僕が言ったことを覚えてる?」

「……うん」

 

 私はゆっくりと頷いた。

 

 じつを言うと、私は内心あの時の話を蒸し返してほしくないと思っていた。だけど私は、最後まで夏緒さんの話を聞くんだって自分に言い聞かせた。

 

 もう逃げちゃダメだって。

 前に進むんだって必死に自分に言い聞かせていた。

 

「あの時の僕の話は、確かに最低だったかもしれない。とくにハルぐらいの年頃の女の子だと、なおさらね」

 

 私は何も言わずに続きを待った。

 

「だけど、あの時に話した言葉に嘘はない」

 

 私は何て言葉を返せばいいのか分からなかった。

 

「僕は……こんなふうに考えちゃうんだ――」

 

 夏緒さんはためらいがちに私を見て続ける。

 

「もしも、ハルがこの“夜間飛行”に通わずに、毎日を同じ年頃の女の子や男の子と過ごしていれば、今のハルが抱えている悩みのほとんどはそもそも持ち上がってさえなくて、ハルは普通に中学生生活を送って、受験勉強に専念しているんじゃないかって。それで同世代の男の子のことを好きになったりして、付き合ったり別れたりをして、恋愛というものを知っいったんじゃないかって。この“夜間飛行”や、僕の存在が……ハルの人生を複雑にしているんじゃいかって」

 

 私はようやくぜんぶ分かったような気がした。

 この人は、私のことをぜんぶ分かって言っているんだ。

 私の気持ちに気がついていて、その上で言っているんだ。

 私は目の前にいる年上の異性を、本当に意地悪な人だなって思った。

 

 ひどい人だなって思った。

 だって告白もさせずに振るなんて、ひどすぎるにも程があるよ。

 

 ああ、私は失恋したんだって思った。

 それが分かったら、失恋したことにどことなく清々しさを感じている自分がいた。長い間胸の中に沈んでいた重い石が、ようやく体の中からふと消えてしまったような気がしていた。

 

 でも、やっぱり涙はでるんだなって思った。

 それにとても悲しく傷ついていた。

 

 だから少しだけだったら、この意地悪な年上の異性を困らせてもいいよねって気持ちになっていた。

 

「もう遅いよ。だって、私の大切なものは全部……この場所にあるんだよ? この“夜間飛行”が、私に大切なものをぜんぶくれた。いまさらそれがなかったらなんて考えられないよ。それに、もしも“夜間飛行”がなかったら……私の人生はとってもつまらないものになってたよ」

 

 もしも“夜間飛行”がなかったら、私の今日までの人生は本当につまらないものになっていたと思う。

 

 私は音楽をもう一度楽しむこともなかっただろうし、もう一度ピアノを弾こうとも、吹奏楽部に入ろうとも思わなかっただろう。ハニーとも友達になってなかっただろうし、アイリーンに声をかけることもなかっただろう。 もちろんバンドを組むこともなかったと思う。あんなにたくさん詩を書いたり、物語を書くこともなかっただろう。

 

“夜間飛行”でハルキさんと出会わななければ、私はサン・テグジュペリを知らなかっただろう。ベーグルサンドのおいしさも、ハチミツを入れたコーヒーのおいしさも知らなかっただろう。

 もちろんサックスの吹きかただって知らなかったはずだ。

 

 ハルキさんは私の人生にたくさんの大切なものを与えてくれた。それは、きっと学校の友人や先生からは与えられなかったものだと思う。そしてハルキさんが私に贈ってくれたたくさんの言葉は、私の心の夜空で星のように輝いている。

 

 それに何より、“夜間飛行”がなければ、私は恋を知らなかっただろう。

 

 いずれ誰か別の人を、夏緒さん以外の誰かを好きになり、私は別の誰かに恋をしたかもしれないけれど、それでも私は本当の恋を知らなかっただろうって思う。

 

 届かない恋をする苦しさを知らなかったと思う。

 届かないと知っていてなお、強く焦がれてしまう甘い感情を、私は知らなかっただろう。

 

 それに、夏緒さんにも私と同じように悩みがあり、そして誰しもが自分の人生をスイングさせるために苦しんでいるんだってことを、私は知らなかっただろう。

 それを知ることができて、私は心からよかったと思う。

 

「私、ここが好き。この場所に来る人たちが好き。ここで飲むコーヒーが好き。ここで聞く音楽が好き。ここで楽器を演奏することが好き。ハルキさんが好き。夏緒さんのことが、好き」

 

 最後の好きを言った時、私はどうにかなってしまいそうだった。

 私の好きな人は何も言葉をかえしてくれなかった。

 

「私、夏緒さんを知らない間に苦しめていたんだね?」

 

 私の頬を伝う涙は暖かかった。

 大切なもので溢れかえる私の胸の中みたいに。

 

「苦しめていたのは、僕の方だ」

 

 夏緒さんは首を横に振った。

 

「本当は今日、ハルに謝りたかったんだ」

「謝るのは私のほうだよ。たくさん心配かけて、たくさん困らせてごめんなさい」

「ごめん。いつまでもハルの憧れでいたかった」

「私も、夏雄さんにいつまでも私の憧れでいてほしかった。でも夏緒さんの話を聞けてよかったって思う」

 

 私は声を振り絞って続ける。

 

夏緒さん、私だいじょうぶだよ。たくさん心配かけたけど、私、ちゃんと前に進めるよ。私の人生をスイングさせるために、私、ちゃんと前に進んでいくよ」

「そうか」

 

 私の言葉を聞いた夏緒さんは、納得したように頷いた。

 その表情は少しだけ寂しそうだった。

 

「今日のハルの演奏を聴いた時に、もう僕が心配する必要はないだろうって、そんな感じはしてたんだ。吹っ切れたような気がね」

「そうかもしれない。私、なにか吹っ切れちゃったのかも」

「僕の方が、ハルのスイングに励まされたよ。自分がまだあんなふうにスイングできるなんて思ってなかった」

「だいじょうぶだよ。人生はなんどだってスイングするよ。奏でなければ音は響かない、演奏しなけれなスイングはないんだよ」

 

 私はニッコリと笑って言った。

 

「ハルキさんの受け売りか?」

「うん」

「あのジジイは、本当に腹が立つくらい胸に響く言葉を投げつけてくるな」

「ハルキさんをジジイって言わないで」

「わかったよ」

 

 夏緒さんは両手を上げて降参のポーズをとった。そして氷の溶けきったアイスコーヒーをストローで吸って、顔を顰めた。

 

「まずいな。そうだ――」

 

 夏緒さんは立ち上がってカウンターの中に消えて行った。

 そして戻って来た時には、私たちの思い出深い飲み物を両手に持って戻ってきた。

 

「あっ、ラムネだ」

「そう。ハルと一緒に飲もうと思って買っておいたんだ」

 

 私は感動で泣きそうだった。

 そして心の中で言った。

 

「本当にずるくて意地悪な人だな。告白もさせずに振った女の子に、こんなふうに優しくするんなんて反則だよ」

 

 まだ当分、私は年上の異性のことを忘れられないだろうって思った。それも悪くないだろうって思っている自分がいた。

 

 失恋の味がするラムネは、格別においしかった。



 私はようやく夏を感じることができた。

 

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