その日の空は見事な快晴だった。
目が覚めるようなラムネ色だった。
久しぶりに自転車で丘の上に上ると、そのメロディは直ぐに聞こえてきた。
私は、初めてこの丘の上に辿りついたあの日を思い出しながら――
音楽の鳴るほうに、まるでその音の重力に引かれていくように足を進めた。
私はゆっくりと“夜間飛行”の扉を開いた。
そしてしっかりとした足取りで、お店の中に足を踏み出した。コーヒーの香りがする薄暗い店内の一番奥、一段せり上がったステージの上には、椅子に腰を下ろしてエレキ・ギターを弾いている年上の異性がいた。
私よりも早く“夜間飛行”に来ていた夏緒さんはギターを弾いたまま、視線で私に合図をした。
その合図の意味は考えるまでもなく分かっていた。
私は肩から下げたサックス・バックを開いて、マイ・サックスを取り出した。昨夜念入りに磨き抜いた真鍮の楽器は、真夏の太陽のように輝いていた。マウスピースをサックスに取りつけて、肩からストラップをかける。両手でサックスを持ち、マウスピースに唇をつけた。チューニングを確かめるために、幾つかの音を吹いてみる。
昨夜しっかりとチューニングしておいたので音に問題なかった。
今度は簡単なメロディを吹いた。
すると、夏緒さんが私の音にかぶせるようにして演奏に割り込んだ。
そしてそのままメロディを引き取って、演奏をリードし始めた。
私は、夏緒さんにリードされるままに演奏を続けた。
ジャズの簡単なフレーズやスケールを互いに演奏しあと、夏雄さんが一曲目に選んだ曲は――
“Why Was I Born”だった。
それは、私が初めて覚えた曲。初めて教わった曲。初めて一緒に演奏した曲。
私のはじまりの一曲だった。
私たちは互いに何かを思いながら、この曲を演奏した。この曲を演奏している夏緒さんが、過去を、私との思い出を振り返っていることは分かっていた。だって演奏をリードする夏緒さんのギターが、こんなにもセンチメタルでロマンチックな音を出すのを初めて耳にしたから。
こんなにもゆっくりと、そして重々しく演奏される“Why Was I Born”は、まるで別の曲のようだった。
一つ一つの音に意味を込めるように、私は一音一音を大切に吹いた。
そして心の中で静かに歌った。
年上の異性に届けるように。
私はバカな女の子
でも私に何ができるんだろう?
なぜ私は、あなたを愛するために生まれてきたんだろう?
それから、私たちは互いに思い出せる曲の限りを、思い思いに演奏していった。
演奏は続いて行く。
夏緒さんが演奏をリードすることもあれば、私がリードすることもあった。夏緒さんが私のリードを奪うこともあれば、私が夏緒さんのリードを奪うこともあった。夏緒さんにソロを要求されれば、私は技術技巧の限りを尽くしてアドリブでソロを演奏し、そして夏緒さんにはもっとすごいソロを要求した。
そこに言葉は必要なかった。
私たちは音と演奏で会話をすることができた。
ほしいと思った音は必ず鳴り、ついて来てほしいと思えば必ずついてきてくれた。演奏を引き取ってほしいと思った時には必ず演奏を引き取ってくれた。合わせて欲しいところでは必ず音が重なった。
二人でほんの少しだけ目を合わせれば、演奏に必要なことの全てが理解できた。
その度に私の興奮は際限なく高まり、私の心臓は今にも爆発しそうだった。
私たちはそうやって演奏のテンポを、演奏のテンションを徐々に上げた。ムードのあったスローな演奏は、いつの間にかスピード感のある跳るような演奏に変わっていた。
私たちは打ち合わせも事前の練習もなく、まるで真っ白な画用紙に思いつくままに描いた落書きのように、この演奏を思い出と即興だけを頼りに形にしていった。演奏の途中、夏緒さんはギターを弾きながら同時にドラムを演奏しはじめた。足でキックとスネアを叩き、ギターを演奏しながら右手でスティックを叩くという器用なことをしてみせた。
そしていつの間にか完全にドラムの演奏に移ってしまった夏緒さんは、途中でギターの演奏を私に任せた。
私は暫く夏緒さんの熱が残ったギターを大切に演奏した。
最後に、夏緒さんはアップライト・ピアノに向かって意地の悪い視線を向けた。
まるで煽られ、挑発されているような感じだったけれど、その挑発に乗ることは心地よかった。
私は迷うことなく頷いた。
演奏は続いて行く。
私がアップライト・ピアノの席に座ると、夏緒さんはドラムをリズミカルに叩いて、次に私がピアノで演奏すべき曲を指定した。
その曲は、ジャズ・ドラマーであるアート・ブレイキーの――
“moanin'”だった。
ジャズの代表曲にして定番中の定番。
名曲であり、きっと永遠のナンバー。
私は最初の有名すぎるフレーズをピアノで演奏する。
夏緒さんが煽るようにドラムを叩く。
私たちは音で喧嘩をするように“moanin'”を演奏した。
その演奏はグルーブ感に満ちていた。
今までにないくらいにスイングしていた。
まるでどんどんと青空を駆け上がっていくみたいだった。
私たちは魂の奥深くから音を出すように必死に演奏した。互いに技術技巧を費やし、相手にそれ以上の演奏を要求し、それでも互いに一歩も引かない、そんな白熱した演奏をした。
鍵盤は軽く、指は良く回り、リズムはピタリと合わさった。
不思議な気持ちだった。
こんなにも音は高ぶっていて興奮してさえいるのに、心の中はとても穏やかだった。
音はグルーブ感に満ち、演奏は限りなくスイングしていくのに、鍵盤を叩く指と私の心はこんなにも落ち着いていた。
音楽はどんどんと上がっていく。
その音は夜空に浮かぶ月にまでスイングしていきそうなのに、演奏をする私の心は静かな海の底に沈んで行くみたいだった。
私たちは限りなく透明に近い、そんな演奏の中にいた。
音の中心で、私は私の中の全てをさらけだすように演奏した。
私の音を聞いてとねだる子供のように、私はここにいるんだよと叫ぶ子供のように、この曲を、“moanin'”を演奏した。
“moanin'”には、“うめく”という意味がある。
そして、この曲の出だしはこうだ。
“朝が来るたびに俺はうめいている”。
私も今、必死にうめいていた。伝えたくても伝えられない気持ちを、そして伝わらない気持ちを胸に秘めて、叫び続け、うめき続けていた。
私は、私の気持ちの全てを音に乗せて、思いの全てを演奏に込めて届けた。
年上の異性に。
私の恋した人に。
私の夏に向かって。
演奏は続いて行く。
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