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iの終わりに~26話

iの終わりに(完結済み) 小説

第26話 存在しない子供

 

kakuhaji.hateblo.jp

 第一話はこちらから読めます ↑

 

「やぁ、老いた兎」

 スナークは、まるで長い間別れていた友人に再会した時のような親しみと、気さくさで僕のことを“老いた兎”と呼んだ。

手錠をかけられて拘束された美しき獣は、それでもその華麗さや偉大さを微塵も失っていなかった。それどころか、そんな苦汁を舐めさせられていることが、少年のある種の美徳のようにさえ見えた。

「ずいぶん早い再会ですね。やっぱり、あなたはくそ下らない大人になってしまったみたいだ」

 スナークは僕の隣に立った国会議員を見つめてそう言った

 早すぎる再会は、打ちっぱなしのコンクリートの一室だった。

狭く、薄暗い部屋の中で鎖に繋がれて檻の中に入れられた美しい獣は、何一つ心配すること事はないと――少年にとってこの状態は、昼下がりのティータイムと何ら変わりがないと微笑んでいた。

「この“ナーサリー13”での僕の役目は全て終わっています。ここにいる子供たちの全ては眠りにつき、イデアの中へ――“ワンダーワールド”へと沈んだ。あなた方が何をしようと事態は好転しない。子供たちは帰ってこない。あなた方には、手を出すことも、口を出すことはできないんです。ここは子供たちの“不思議の国”だ。大人たちは入ることができない。そして“ディドルディドル”は踊り続ける。この世界の終幕まで」

 澄んだ瞳の奥に妖しげな蝋燭の火を灯したスナークは、僕と国会議員を見つめて熱っぽく告げた。その背には、やはり嵐を背負っていた。

「全くもって下らないじゃあないか。確かに我々大人たちには子供たちの夢の中には手を出すことも、口を出すこともできない。認めよう。だが、いや、だからこそ、実に滑稽で愉快だ。その子供によって、コギトによって、これからイデアは壊され、子供たちの幸せな夢が穢されていくんだからな。こんなに愉快なことは、そうそうなだろう? 惜しむらくは、私たちはそれを特等席で眺めることができないということだ。君と同じくね。ドブネズミ君」

 スナークは一瞬、思いがけず頬を打たれたような表情を浮かべた後、再び微笑を浮かべた。

「あなたこそ下らないことを言う。本当につまらない大人だ。イデアはコギトたちの新世界です。新しい種であり、その新世界の主たるコギトたちの楽園です。それは誰にも壊せないし、穢せない――子供たちは神と共に踊り、永遠を生きるのだから」

 スナークの言葉を聞いた国会議員は笑っていた。底抜けに楽しそうに、音もなくけらけら笑っている。

黒い衣服で統一された国会議員が、夜の嵐にさらされる枯れ木に見えた。

「では、君には私から絶望を差し上げるとしよう」

 国会議員は揃った手札の一枚を裏返すように言葉を続けた。

「君たちディドルディドルは、私たちから“黒兎”を奪い、それと共に深度十三階へ至ろうとした。神と邂逅しようと試みた――しかし、自分たちが何を引き込んだのか、何を連れて行ったのか、本当に分かっているのか?」

「僕たちが一体何を引き込み、何を連れて行ったのか?」

 スナークの顔から微笑が消えていた。

「怪物だよ。私たちは深淵に怪物を送り込んだ。スプーン一杯の汚水をね。私が先ほど言った“ノクトレプシー”という現代病を覚えているか?」

 国会議員は僕を見つめて尋ねた。

 僕は答えなかった。

女の子は“怖い夢しか見ることができない”と言った。

胸騒ぎが収まらなかった。

「“悪夢しか見ることができない病”――“ノクトレプシー”は現代人にとっては煩わしい病ではあるが、それほどたいした病ではない。生活習慣の改善と、いくつかのサプリメントで容易に改善できる。だが、アナムネシス・チルドレン――“コギト”の場合だと、話が少し変わってくる。コギトがノクトを発症している場合、ノクトを患っているコギトはスフィアを汚染する。子供たちの幸せな夢を悪夢へと変える。スプーン一杯の汚水が樽の中のワインを全て汚水に変えてしまうように」

 僕は国会議員を睨み付けた。黒い獣は心地よさそうだった。

「“ロンドン橋計画”の前身である“サルベージ計画”が成功せず、無駄に時間と予算を食いつぶしていく中、我々は子供たちの“社会復帰プログラム”を通じて一人の少女に出会った。そして計画を百八十度変更することになった。その少女が眠りに沈む際に発する脳波の量は測定不能だった。我々がその少女ならば深度十三階に至れると結論をつけ、彼女一人いればイデアの全てを汚染することができると仮定した。少女は井戸の底に沈む。そして井戸の底で全てを汚染しながら――子供たちの夢を穢し壊していくんだよ」

「嘘だ。そんなことが、できるわけがない」

 スナークが信じられないと叫んだ。その姿がとても痛々しかった。

「できるわけがない? 何を根拠に言っているのだろうか」

「僕たちの新しい神話――“カフカの蝶構想”の中では、コギトたちの存在を進化の系統樹の行き着く先と定義している。それは肉体という蛹を脱ぎ捨て蝶となった魂がイデアという宇宙で永遠の存在に変態すること、人は肉体という魂の牢獄から抜け出しこの内なる世界に羽ばたき、新しい段階へと至ること――つまり、人が神へと至る過程であると記されているんですよ。そんなことが、たった一人の少女の悪夢でイデアの全てが穢れ、壊れてしまうようなことがあるわけがないんですよ」

「“カフカの蝶構想”。そんな頭の箍の外れた脳科学者が書いた妄想の産物を後生大事に、それも神話のように扱うなんて、滑稽どころか、憐れすぎて物悲しくさえなってくる」

 国会議員は肩を竦め、まるで幼い子供を優しくあやしつけるような口調で言った。

カフカの蝶構想が、頭の箍の外れた脳科学者の妄想の産物?」

 スナークは混乱していた。

「その通りだよ。あれは危険だから公表されないんじゃない。誰も相手にしていない、たんなるトンデモな考えというだけなんだよ。コギトやイデアを扱った最近の下らないSF小説でも読んでみるといい。おそらく、そんな夢物語で溢れかえっているだろう」

「そんなこと、信じられない。あれは僕たちの新しい神話――」

「全く、底なしの愚か者だな。救いようもないじゃないか。いいか、そんなものは考え方の一つに過ぎないんだよ。それも、私たちが意図的に君たち子供たちに――ディドルディドルに流したね」

「意図的に流した? 嘘だっ――」

「当たり前だろう? 君たちの目に触れる情報、手に入れることができる情報なんてものは、全て我々が、大人たちがきちんと整理整頓をした情報で、我々大人たちの恣意的な検閲を通った情報に過ぎない。そうに決まっているじゃないか?」

 国会議員は両手を広げてみせた。その姿は、まるで全知全能を現しているみたいだった。

 少年はその姿に圧倒されていた。

「我々大人たちは、届けられる“郵便物”の全てに対して常に目を光らせている。君たちが配る“招待状”がどれだけ下らなかったとしても、我々はその中身を確認せざるを得ないんだ。それが大人というものだ。そして我々がその気になれば情報なんてものはいくらでも書き換えることができるし、隠し通すことができる。だからこそ、それが適わないイデアを我々は怖れる」

 国会議員はもう一枚のカードを裏返すように、手に持っていた印刷物をパラパラと捲り始めた。

「“コードウェイナー・レポート”」

 国会議員はレポート中身について話を始めた。

「このレポートでは、カフカの蝶構想とは違う立場――アナムネシス・チルドレンを“人類の絶滅行動”の一形態であると結論付けている。種としてこれ以上の進化を望めなくなった人類は、しかし自分達では人類を終わらせることができず、間引くこともままならない。そこでDNAの中に眠っている絶滅へのプログラムが作動したことが、アナムネシス・シンドロームでり、アナムネシス・チルドレンであると」

 アナムネシス・チルドレンが、これ以上の進化を望むことができなくなった人類の、絶命行動の一形態? 

 カフカの蝶構想とコードウェイナー・レポート。

 相反する二つの定義。

 僕たちは一体何を信じればいいのかまるで分からなかった。

 スナークも同様に戸惑いの表情を浮かべていた。まるで迷子の子供だった。

「このままでは人類は緩やかに絶滅していき、百年後には人口の壁を迎える。文化的な生活は破綻し、今間まで培ってきたインフラを維持できなくなった人類の生活は一気に中世まで逆のぼり、そのまま原始時代まで転がり落ちていく。そして人類は滅びるというのだ。まぁ、カフカの蝶構想と同じく、どちらも下らない色物のレポートだよ。そもそもコードウェイナー・レポートを発行しているシンクタンク“コードウェイナー財団”そのものが、一代で財を築いたSF作家がその財産を寄贈してつくったようなものだから、当たり前といえば当たり前の話だ」

 国会議員は手に持っていたレポートを投げ捨てた。

「いいか、坊や。このように考え方というものは無数に存在する。この世の中には真実なんてものは存在せず、それぞれの解釈というものが存在するだけだ。だからこそ我々は常に疑い、常に検証をする必要がある。そうして全てのものを疑ったとしても、それでも自分自身さえを疑っている自分だけは真実として存在している。それこそが、“Cogito ergo sum”――“我思う、ゆえに我あり”の本質なんだよ。この言葉は、子供たちが現実から目を背けて心地よい夢に逃げることを肯定すために使うような、そんな都合の言葉ではないんだよ」

 国会議員は心底残念な様子でスナークを見つめていた。

その姿は、まるで弔問に訪れた参拝客みたいに見えた。

スナークの身に纏った白い服が白い死に装束にさえ。

「こんな話をしたところで君には関係のない話だったな。君は“スナーク”――“存在しない獣”。たんなる道化であり、蝋燭の火がつくりだした影に過ぎない。私は、君に心から同情しているよ。君は子供でも大人でもない、世界で唯一の迷子なのだから」

 献花を置くように、国会議員の言葉がひどく優しく響いた。

その言葉を聞いたスナークの瞳の奥に灯る蝋燭の炎が、ふっと消えてしまったみたいだった。

「黙れ、黙れ、黙れ。僕に同情するな、僕を憐れむな、僕をそんな目で見るな。このくそ下らない大人たちが、僕を、僕を、僕を――」

 突然、スナークが何かの発作に駆られたように叫び始めた。

その悲痛の声には、底なしの憎しみが宿っているみたいだった。

 もうここには、出会った時に感じた――福音を受けたような美しい獣は存在していなかった。

 ただただ憐れな子供が、迷子が一人いるだけだった。

「僕一人にだけ“招待状”は送られなかった。僕は存在しない子供。こんな世界は間違っている。世界の関節は外れてしまっているんだ。だから、この世界の最後を――僕が、僕だけが見届ける。僕がこの世界の“黙示録”を記すんです」

 擦り切れた声で叫ぶようにして語られたその言葉を聞いて、僕はこの“存在しない獣”の正体を知った。

「99.9999%の子供が産まれながらに発症しているアナムネシス・シンドロームを、僕だけは授からなかった。僕は存在するはずのない子供なんです。まわりの子供たちは楽しそうだった。幸せそうだった。だけど、僕一人だけがその楽しさを、その幸せを共有することができない。僕だけがイデアへの招待状を送られなかったんです。そんなこと認められなかった。僕だけが孤独で、ひとりぼっちで、この世界で唯一必要のない子供だなんて。僕は自分の生きる意味が欲しかった。人生と呼ばれる舞台で、僕が担うべき役割が欲しかった――それが、“スナーク”という“存在しない獣”だった」

 少年の言葉は弱々しくこぼれた。

この少年の悲しみや絶望がどれほどのものなのか、僕には分からなかった。自分一人だけが選ばれず、自分一人だけ招待状が配られなかったということが、どれだけこの少年を傷つけたのか、僕には永遠に分からないだろうと思った。

 それでもこの少年のやっていることは間違っていると思った。

それはただ単に与えられなかったことに駄々をこねているだけなんだと。

そして、この“黒い獣”も――ジャバウォックも間違っていると思った。

 僕にはその間違いを正すことはできないけれど、一つだけやるべきことがあった。

 それは、とても大切なことだった。

「さて、些か興ざめだったが“スナーク狩り”は概ね楽しめた。しかし、君には巨大な“スポンサー”がついている。直に自由の身になるだろう。全く苛立たしいが、スポンサーはまだ君に利用価値があると考えているんだろう。私には、まるでそうは思えないがね」

 国会議員は振り返って足を進めようとした。

「もう、ここに用はない。行こうじゃないか――」

 鈍い音が鳴った。

ひどく嫌な音だった。

 僕が精一杯の力を込めて振りぬいた右の拳は、後味の悪い感触に包み込まれた。

 僕は国会議員を殴った。

絶対に一発殴ると決めていた。

一歩足を踏み出して拳を振るった。

拳を振りぬいた後に吐く息は熱くて荒かった。ひどく興奮していた。心臓は螺旋を巻きすぎたみたいに激しく血を送り出し、頭の中はぐつぐつと沸騰して滾っていた。罪悪感みたいなものに押しつぶされてしまいそうだった。殴ったのは僕なのに、僕が殴られたみたいだった。

 頬を抑えた国会議員は心地よさそうに、にやりと笑った。

薄い唇から赤い血が流れていた。

“ああ、この黒い獣にもやっぱり赤い血が流れているんだ”と、当たり前のことを思って――僕の視界は真っ白になった。

 気がつくと僕は天井を仰いでいた。

 コンクリートの地面にだらしなく仰向けになり、体中の筋肉が弛緩していた。

遠くから大きなものが近づいていくるような、そんな痛みが僕の頬から体中に広がった――それはどこかに行ってしまわずに、僕の中を蠢き続けていた。

 そこでようやく、僕は殴られて失神したんだと気がついた。

 でも、全然かまわなかった。

一発殴ってやった。

それだけで十分だった。

 この男はフィンを怪物と、汚水と呼んだ。そして全ての子供たち――与えられたもの、与えられなかったもの――を馬鹿にしたんだ。

 今にも落ちてきそうな罅割れた天井に向かって、僕は拳を突き立てた。

ひどく気分がよかった。

「あなたたち、一体何をやっているの?」

 新しい来訪者が当然の疑問を漏らした。僕もそんな気がした。

 遠くの方で猫の鳴き声が聞こえた。

 老人の膝に腰を下ろした“ふてぶてしい猫”の鳴き声は――“よくやった”と言っているみたいだった。

 耳の鼓膜がおかしくなっているんだと思った。

 

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