その瞬間が来るのを待っていた私は、少しだけ傷ついていた。
伸ばされた手を拒むことは、誰かに別れを告げることは、いつだって悲しくて胸が痛かった。それと同じように離れ行くものを繋ぎ止めておこうとするのは、いつだって怖く、勇気を必要とすることだった。
私は川沿いの土手に立っていた。
向い側から土手を走ってくるハニーを待ち受けていた。
川沿いの土手は有名なマラソンコースで、ハニーは部活動がない日は必ずこのコースを走っている。黄色のTシャツに黒のランニングパンツ姿のハニーは、土手の上に大股で立ち尽くした私の姿に気がついて、驚いたように目を丸くした。そして小さな声で何かを呟いたみたいだった。
ハニーは少し走るペースを落としたけれど、走ることはやめなかった。
そして私の姿を見て察したように顔を顰めた。
少し苛立ったような表情を浮かべた。
ハニーは何も言わずに私の横を通り抜けて走り去って行った。
私はハニーの背中を追うようにスタートを切った。
そして追いついて並走した。
私もTシャツにランニングパンツ姿だった。
私たちは二人で並んで走った。
ハニーは私を置いて行こうとペースを上げ、私はそれにくらいつくためにペースを上げた。前を走る彼女の背中を見失わないように、もう二度と離れていく背中を見送らないと自分に言い聞かせるように、私は離れて行こうとする背中を必死で追った。
私たちは無言で走った。息が切れる。体から大量の汗が流れていく。身体が悲鳴を上げている。心臓が酸素を体中に送り届けるために猛スピードで働いている。
それなのに身体の動きはスムーズだった。
いつしか私は無心で走っていた。
空白の中で走っていた。
私はいろいろなことを置き去りにして、心の中を真っ白にしてしまうように走った。苦しいはずなのに心地よかった。月の上を走っているみたいに体が軽く、いつまでも走っていられるとさえ思えた。
次第に青空は暮れていき、蜂蜜色の黄昏に土手が染まっていく。
私は少しペースを落としたハニーの横に並び、ちらと彼女を見つめた。
ハニーは泣きそうな顔で笑っていた。
私は今にも泣きそうだった。
ハニーは走ることをやめた。
私も足を止めた。
そして、二人して肩で息をして乱れた呼吸を整えた。
走ることを止めると、私の身体は不平不満を訴えかけるように悲鳴を上げた。
まるで月から下りてきて六倍の重力を感じているみたいだった。
私は立っているのも限界で膝に手をついた。大量の汗が地面にこぼれて小さな水溜りをつくる。息も絶え絶えの状態だった。ハニーはそんな私を見て大きなため息を吐いた。やれやれと首を横に振った。
「いきなりこんなオーバーペースで走ったら、身体おかしくするに決まってるでしょ? 普段から走り慣れてないんだから」
「ぜぇぜぇ」
「だけど、本気で置いてくつもりで走ったのに……よくついてこれたね?」
「ぜぇぜぇ。吹奏楽部の……体力……トレーニングを……ぜぇぜぇ、甘く、見ないでよね。これぐらい……ぜぇぜぇ。ぜんぜん平気だよ」
「打ち上げられ魚みたいになってるくせに」
「ひどい。せめて……月から下りてきた……かぐや姫って言ってほしい」
「なにそれ、どこが?」
そう言ってハニーはくすりと笑った。
そして笑った後、ハニーは気まずそうに目を逸らした。
少しだけ重い沈黙が私たちの間に流れた。
「ハル――」
ハニーは表情を強張らせて私の名前を呼んだ。
震えた言葉の続きはなかった。
ハニーの言葉は胸の奥深くで迷子になっているみたいだった。
だから私は、その先のハニーの言葉をかき消すように、大きな声で言った。
「ハニーっ、私たちは友達だよ」
「……え?」
「喧嘩してても、怒ってても、ハニーが私のこと嫌いになっても、私たちは友達だよ。私は、私はね……ハニーと友達がいいよ」
私の声は震えていた。
ハニーは泣いていた。大粒の涙をこぼしていた。
だから私も、もう我慢する必要もなくなって泣いた。
私たちは二人して汗まみれで、鼻水まみれで、涙を流した。
「……ハル、ごめん。ごめんね」
ハニーは涙と一緒に言葉をこぼした。
「私、ハルが悪いんじゃないって分かってた。なのに……どうしても感情を抑えきれなれなくて、ハルに当たり散らしてひどいこと言って、それで逃げ出して……ごめん、私、最低だった」
「ちがうよ。私がちゃんと話してればよかったんだよ」
「ちがう。ぜんぶ私が悪いんだよ。ハルのせいじゃない」
「ちがうよ。だって私、ハニーが一之瀬君のことを好きだって気がついてた。だから隠し事なんかしちゃいけなかったんだよ。ほんとごめんね。ごめんなさい」
私が言うと、ハニーは泣きながら顔を赤くした。
「私、カエデのことが好きなんだって……ずっと認めたくなかった」
ハニーは本心を吐露してくれた。
「だからずっと自分に、私はカエデが好きなんじゃないって言い聞かせてた。カエデはハルのことを好きなんだって知ってた。ずっと前から気づいてた。私に勝ち目ないって分かってた。だから私とカエデはただの幼馴染だって……カエデは私の弟かペットの犬みたいなものだって、ずっと自分に言い聞かせてた」
ハニーの声は深く沈んでいた。
その声はとても傷ついていた。
私も知っている。
届かないと知っている恋をすることが、とてもつらくて苦しいということを。
溺れてしまいそうなくらい、それはつらくて苦しいんだ。
「ねぇハル……ハルはカエデとどうするの? カエデのことどう思ってる? ハルはカエデと付き合うの?」
ハニーは怯えた子供のような表情で尋ねた。
「じつはね……私ここに来る前に一之瀬君と会ってきたの」
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