青い春をかける少女~21話
21 人間の土地
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「ハルキさん、お待たせしました。あ、あの……こんなひどい顔でごめんなさい」
私は開口一番にそう告げて麦わら帽子を深くかぶった。
そんな私の姿を見て、ハルキさんは楽しそうに大きな笑い声をあげた。
「ぜんぜんひどい顔なんかじゃない。とても素敵な顔をしている」
「ウソ、私ひどい顔してる」
私は首を横に振った。
「私、目の周りは腫れてるし、顔はむくんでるし、家を出る前に……お母さんにすごい〝ブサイク〟って言われた」
ハルキさんはそれを聞いてまた楽しそうに笑った。
ポロシャツにスポーツメーカーのキャップをかぶったハルキさんは、どこか少年のように見えた。
「いやいや本当に素敵な顔をしてるよ。若さを象徴したような顔だ。臆病で傷つきやすい少年少女どくとくの表情だ」
ハルキさんはそう言ってニッコリと笑った。
「さぁ、少し歩こう」
ハルキさんは歩き出した。
私も背の中を追って歩き出した。まるで森の中で迷子になった私を、森の出口まで導いてくれるみたいだった。
私たちは丘の上の図書館まで歩いて、図書館の公園のベンチに腰を下ろした。
図書館に出張してきていた車のホットドック屋さんを見つけると、ハルキさんは嬉しそうにホットドックとドリンクを二つずつ買った。
私のドリンクはアイスティで、ハルキさんはジンジャーエールだった。
私たちは無言でホットドックを頬張った。そして飲み物を飲んだ。パリパリのソーセージに刻んだピクルス、たっぷりのケチャップとマスタードのかかったホットドックはとてもおいしかった。マスタードがつんと鼻を刺した。
しばらくすると、ハルキさんが地面に飲みかけのジンジャーエールのカップを置いて、その隣に小さくちぎったホットドックのパンを置いた。
植木の隙間から一匹の猫が現れて、当たりをきょろきょろと見回しながらハルキさんの足元にやってきた。
小さな黒猫は器用にジンジャーエールの入ったカップをひっくり返すと、こぼれたジンジャーエールを美味しそうにぺろぺろと舐めはじめた。ちぎられたホットドックを頬張り、ごちそうさまのかわりに“にゃー”と鳴いた。
「この猫、ハルキさんの知り合いですか? 猫って炭酸飲めるの?」
私が尋ねると、ハルキさんは楽しそうに笑って猫の顎の下をゴロゴロしてあげた。
黒猫は嬉しそうに〝にゃー〟と鳴いて、ハルキさんの指を舐めた。ずいぶんとハルキさんに懐いているみたいだった。
「前にここでホットドックを食べている時、間違ってジンジャーエールをこぼしてしまったんだ。そうしたらこの猫君が寄ってきて、こぼれたジンジャーエールをおいしそうに舐めたものだから、それ以来ここに来たときは猫君にご馳走しているんだよ」
ハルキさんは喋りながら猫君と戯れた。
「猫っていうのはね、けっして人のものにはならない類の動物だよ。生き物としてプライドが高いんだ。自分を安売りしたりはしない。だからせいぜい、猫君と友人になるくらいが関の山だよ」
「じゃあこの猫君はハルキさんのお友達なんですね」
「そういうことになるね」
「名前はないんですか?」
「猫に名前なんて必要ないよ。名前なんてなくても彼らは自分がなにものかを知っている。僕たち人と違ってね」
「私たちと違って……猫は自分がなにものかを知っている?」
私が首を傾げると、ハルキさんは猫君と戯れるのを止めて私を真っ直ぐに見つめた。私はその少年のようにきらきらと光る瞳を見て、これがとても大切な話であることを理解した。
「僕たちは、長い時間をかけて自分自身を知っていく。時に悩み、時に苦しみ、時に友人と喧嘩し、時に恋人と別れる。多くの悲しみの中で、自分自身が何者であるかを知り、何者かになっていくんだ。そしてその中で、多くの喜びや、多くの幸せを知り、大切なものを手にしていくんだよ」
ハルキさんは一つ一つの言葉を束ねながら、私に何かを伝えようとしてくれていた。
「でも私、もうどうしていいのかわからないんです。考えると胸が痛くて苦しいの」
「痛いのなら大丈夫さ」
ハルキさんはニッコリと笑った。
「痛いのは、若いからだ。若いのは、青いから。青いのは、春だから。何も不思議なことじゃない。痛くて、若くて、青い、そんな春を謳歌すればいい。それにハルちゃんは、誰よりも春を駆けている」
「……私、ぜんぜん駆けてなんてないよ」
私は力なく首を横に振った。
「私、なに一つうまくいってない。ピアノだってやめちゃった。吹奏楽部でもいまいちだった。他に何かを見つけてみようと思ったけど……何も見つからなかった。受験勉強にだって精を出してない。バンドは空中分解寸前で解散しそうだし、それに……私の夏はもう終わっちゃったんだよ」
ハルキさんは驚いたように瞳を見開いて笑った。
私は急に恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「笑うなんてひどい。私は真剣に悩んでるのに」
「いやいや、まだ来てもない夏が終わってしまったなんて、ハルちゃんはずいぶんせっかちなんだなって思ってね」
ハルキさんは一頻り笑った後、仕切り直しと言わんばかりに喉を鳴らした。
いつの間にか猫君はいなくなっていた。
まるで人間の下らない悩みになんか興味ないと言ったように。
「ハルちゃん、初めから完成された人なんてどこにもいない。全ての人が自分自身の未熟さや不甲斐無さに日々苦悩している。僕の若い頃なんてそれはもうひどかった」
ハルキは若かりし頃、ひどかった時代の自分を思い出したように笑った。
「僕はなかなかスイングしない毎日に苛立って、殴りつけるように楽器を弾いていた。あんな演奏していたんじゃスイングできないのもの無理はない。そして僕がそのことに気がつくには、ずいぶんと多くの代償を支払わなければいけなかった。友人をなくしたり、恋人とわかれたり、大切な人を裏切ったりね。ひどいものだったよ。まぁ、それは僕だけじゃく僕の周りにいた友人たちも同じだったけれど」
ハルキさんの声はとても優しくなった。
まるで古い友人たちに語りかけているみたいだった。
「僕たちは小さなバンド組んでいた。初めてのバンドだった。僕たちはそのバンドに〝夜間飛行〟と名付けた」
「“夜間飛行”。それって……喫茶店の?」
「そうだよ。あの喫茶店は、僕たち“夜間飛行”が活動していた本当に幸せだった時間を取り戻したくて始めたんだ」
私はハルキさんがあの喫茶店に込めた思いの大きさを計り知れずにいた。その思いの大きさは、きっと今の私に理解できるようなものじゃないんだと思った。
「ハルちゃんが自分のバンドに“南方郵便機”と名付けたように、僕たちは自分のバンドに“夜間飛行”と名付けた。僕たちはどこか似てるんだよ」
私には、私とハルキさんが似ているとは思えなかった。
「“夜間飛行”と名付けたそのバンドは、たった一瞬ではあったけれど間違いなく輝いていた。最高にスイングしていた。幸せな時間だった。だけど、幸せな時間は長く続かなかった。僕たちはバラバラになってしまった」
「どうして? どうしてそんな素敵なバンドが……バラバラになってしまうの?」
「僕たちを繋ぎ止めていたある種の重力は、とてもよわくて、とてももろいものだったんだ。あの時代のうねりに立ち向かうには、僕たちはナイーブ過ぎたんだ。そして不器用過ぎた。僕たちは空中分解してしまった。本当に毎日が失敗の連続だった」
「うそ、ハルキさんはきっとうまく楽器を弾いてたし、人生をスイングさせたよ。少なくとも私なんかよりは」
私は頑として言った。
私はそう信じたかったのかもしれない。
「“どんなおとなたちも、初めは子どもだった”。さぁ誰の言葉か分かるかな?」
「サン・テグジュペリ。“星の王子様”です」
夏緒さんにもらった“星の王子様”を擦り切れるほど呼んだ私は、物語の中の大抵の台詞を暗記してしまっていた。
「イエス。その通りだ」
ハルキさんははなまるをあげる先生のように頷いた。
「僕がハルちゃんと近い歳の頃、僕に演奏できた楽器はギターだけだった。それも適当なコードを繋げてジャズの真似事をしているだけだ。サックスをはじめたのは十八の頃で、バンドの仲間には“ここは車のプレス工場か、それとも象の檻の中か?”って笑われたものだよ。僕たちは毎日を当てもなく暮らしていて、その日を生き延びるだけで精一杯だった。それに比べたらハルちゃんの人生は十分スイングしている」
「そんな、私ぜんぜんスイングなんかしてないし……どうしていいのか分からない」
「人生をスイングするためのコツは、答えを見つけようとするんじゃないってことだ」
「……答えを見つけなくていい?」
「そう。何かを解決しようとか、正しくあろうとか、そんなことは考えなくていい」
「でも、それじゃあどうやって?」
「“人生に解決法なんてものはないのさ。あるとしたら、前に進んでいくことだけ。前に進めば、解決法はあとからついてくる”」
「前に進めばいい?」
また“星の王子様”だった。
「大切なのは答えや解決法を探すんじゃなくて、足を止めないこと。しっかりと、この“人間の土地”に両足をつけて前に進んでいくことだ」
「“人間の土地”?」
私は、ハルキさんが踏んだ地面をじっと見つめた。
“人間の土地”はサン・テグジュペリの書いたエッセイ。サン・テグジュペリ自身が飛行士であった時の経験や、サハラ砂漠に墜落して遭難した時のエピソードがつまっている一冊。
そして、私のお気に入りに入れなかった四冊目の本だった。
内容はとても素敵だけど、私は“人間と土地”というタイトルをどうしても好きになれなかった。
きっと私は、地面に足をつけているんじゃなくて、夜空を目指していたかったんだ。
いつまでも夜空に輝く星を見上げて、月に手を伸ばしていたかった。
この厳しい砂漠に両足をしっかりつけて踏ん張ることを、必死に前に進んでいくことを、私はどこか怖がっていたのかもしれない。
でも、それじゃあダメだったのかもしれない。
前に進む。
そのフレーズは頭の中をリフレインしていた。
「私……もう一度スイングできるかな?」
「人生は、なんどだってスイングする」
ハルキさんは確信しているように頷いた。
「下手くそだってかまわない。ぶかっこうだっていい。みっともなくてもいい。未熟でもいい。諦め、我慢し、投げだし、足を止めてしまうよりは、そのほうがぜんぜんいい」
私はハルキさんの言葉に耳をすませていた。
一語一句を逃さず、全ての言葉を正確に受け取れるように。
「とにかく演奏を続けるんだ。理由も答えもいらない。ただ人生をスイングするために演奏を続ける」
「人生をスイングさせるために演奏を続ける」
「奏でなければ音は響かない。演奏しなければスイングはない」
私の中の張りつめた弦をはじく音がした。
「私、諦めたくない。我慢したくない。投げ出したくない。足を止めたくない。演奏をやめたくない。もう一度、私の人生をスイングさせたい」
私は自分自身に言い聞かせるように言った。
ハルキさんは頷いてニッコリと笑ってくれた。
「ハルキさん今日はありがとうございました。私、もう行きます」
私はお礼を言って立ち上がった。
両足をしっかり地面につけた。
“人間の土地”を踏みしめるように。
私は駆けた。
青い春をめいいっぱいのスピードで駆け抜けるように。
そして夏に向かって行くように。
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