iの終わりに~21話

第21話 深度十三階への招待状

 

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「何だかお話が難しくなってきたので、わたくしたちは席を外しますわ」「あたたかいお風呂に入って」「ふかふかのベッドで眠りについて」「楽しい夢を見ますね」「黒い兎さんもご一緒に」「黒い兎さんもご一緒よ」

 トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーは席を立ち、フィンを誘った。

「ああ、そうするといい。僕たちはもう少し語り合いましょう。賢い人とは少し話すだけでおもしろい。三人とも、おやすみ。よい眠りを、そして幸せな夢を」

「ええ、おやすみなさい」「ええ、おやすみなさい」

 二人は声を揃えておやすみの挨拶をした。

 席を立ったフィンはちらりと僕を見たけれど、“おやすみ”も言わずに背中を向けてしまった。僕は先ほど見せてしまったみっともない姿に委縮して、フィンにかける言葉も思いつかないでいた。まるで自分の中の辞書から全ての言葉を吐き出してしまったみたいだった。

 三人が食堂からいなくなると、僕とスナークだけが残された。

「さて、ご気分も悪いようですし、少し夜風に当たりながら話をしましょう。あなたに見て頂きたいものもありますし、何より我々ディドルディドルのことをもっと理解してもらいたいのです。僕たちは無理やり子供たちを夢の中に連れて行くようなことはしない。子供たち一人一人に“招待状”を配るだけです。それだけで子供たちは喜んで夢の中に沈み、ワンダーワールドを訪れる」

 スナークは立ち上がって僕を連れて歩き出した。

 施設の外に出ると、のしかかるような闇が荒廃した世界に沈んでいた。暗闇に閉ざされた発電プラントだったこの施設が、どこか巨大な怪物のように見えた。吹き付ける夜風に紛れて何かが腐ったような臭いが漂い、まるで怪物が息をしているみたいだった。

 見上げると折れかかった鉄柱が大きな獣の爪に見えた。夜空に浮かぶ月を握りつぶそうとしているみたいに。月は消えかかっていた。まるで砕けてしまったように。

「大きな事故があったんです。その事故によってこの発電プラントは閉鎖してしまった。事故が起きる前、ここは発電だけではなくもっと大きな役割を担っていたんです。何だか分かりますか?」

 スナークは施設内を歩きながら徐に話を始めた。

「新しいエネルギーによる発電です。どうやら僕たちが生まれた時代――いや、その以前から古い人類は“エネルギー”と呼ばれるものに悩んでいたらしいんです。その度に、くそ下らない戦争なんかを起こして、弱くて貧しい者たちを食い物にしていたらしいんですよ」

 少年は楽しげだった。

「まぁ、ありきたりな話です。僕にはまるで理解できない。知りたくもないし、興味もない。記憶の無駄遣いですよ。ただ、この発電プラントはそんなエネルギーなんてもの憂慮した大人たちが考えだした、夢のような解決方法だったらしいんです。その解決策が、何だか分かりますか?」

 少年はくすくすと笑いながら僕に尋ねた。

「さぁ、小人にせっせと螺旋でも回させるんじゃないか?」

 僕がどうでもいいように答えると、スナークはまたしてもくすくすと笑った。

ひどく、馬鹿にされているような気がした。

 少年は手を伸ばし獣の爪を指してみせた。

正確には、その先にある砕けたように薄い月を。

「月ですよ」

 意味がよく分からなかった。

「月にある砂を拾ってきて、それをエネルギーなんてものにしようとしたんです。そして、その月に行くために、月とこの星とを紐で繋げるんです。それで滑車のようものをつくって、せっせと砂を運ぼうとしたんですよ。馬鹿げていると思いませんか?」

「『星の銀貨』ってお伽噺があるくらいだから、あながち間違ってないんだよ。“月の金貨”っていう、現代のお伽噺だよ」

 僕はうんざりしながら言った。

「よしてください。たんなる夢物語ですよ。現実で見る夢ほど、下らないものはないんです」

 スナークはうんざりしと断言した。

「結局、月の砂を運んでエネルギーにする計画も、星と月とを紐か何かで繋ぐ計画も、全部失敗したんです。その計画のせいで、このあたり一帯はこんな有様になって、人も住めなくなってしまったんです、あれを見てください――」

 スナークはこの荒廃して、全てが砕け散ってしまったような景色を――その先にある、どこまでも続いているような金網の向こう側を指した。

「小汚い大人たち――ドブネズミどもですよ。僕たちがこの発電プラントを拠点にしてから、どこからともなく集まって来たんです。何故だか分かりますか?」

 金網の向こうには、疲れ果て、嗄れ、汚れた大人たちがいて、青いシートや段ボールに身を包み、体を寄せ合っていた。そしてもぞもぞと手を動かし、口元に何かを運んでした。

 その姿は、ひどく衝撃的で、本当にひどい光景だった。

「ドブネズミたちが何かを食べているでしょう? あれは先ほど僕たちが残した食事ですよ。あなたが残した食事も、床に落とした卵も――残飯の類は全てドブネズミたちに食べさせているんです。もちろん、食器なんて使わせません。床に撒いたものを手で食べさせます。ひどくみっともなく、惨めて、情けなく、それでいて愉快でしょう。僕はあれを遠くから眺めるのが大好きなんです。無様な大人たちが、大好きなんですよ」

 この光景こそ――世界の関節が外れているように思えた。

 この“恐るべき子供たち”の言葉を、僕はこれ以上聞いていたくなかった。これ以上、この美しい獣と言葉を交わしていたくなかった――今直ぐにでも、耳と目を閉じ、口を噤みたかった。

「ここは、大人たちの夢の終わりなんですよ。大人たちはこのくそ下らない星の中に閉じ込められて争い続け、肉体という牢獄の中で悶え苦しみながら死んでいけばいいんです」

 先ほどまでの楽しげな様子から一転、箍が外れたように熱をもって語り出すスナークは、まるで何かの病に魘されているように見えた。その底なしの憎しみのようなものが、この異常なまでの“大人”や“コギト”への執着が一体どこから来るものなのか、僕にはまるで分からなかった。

「だけど、僕たち子供たちは、コギトは違う。大人たちは醜く生き残るために外の世界に夢を見た。世界を外に押し広げようとした。だけどコギトは、僕たちは世界を内側に求めた。この魂の中に新しい世界を見出したんです――O brave new world」

 まるで、訪れる新世界を祝福するように叫ぶ少年――こんなに凪いだ夜の中にいるはずなのに、“あらし”の中にいるみたいだった。

「どうやら、僕ばかり話しているようですね。いささか興奮して、取り乱してしまったかもしれません。今度は、あなたのお話を聞かせてくれませんか? ――“新世界”の話を」

 スナークは僕を真っ直ぐに見つめていた。

 彼の見開かれたヘーゼル色の瞳は、どこまで澄んでいた。

純真で無垢そのものだった。

目を背けたくなるぐらいの直向きさが、薪をくべた炎のように揺らめいていた。

 僕はそんな彼に何を語るべきなのか、何を伝えるべきなのかが分からなかった。

卵をかき混ぜる音が頭の中で響き渡っていて、上手く言葉を選ぶことができなかった。

 そんな僕を気遣ったように微笑を浮かべた少年は、扉を開けて中へ入るように促した。

先程の施設とは別の、大小さまざまなパイプが縦横無尽に走って簾を巻いたような施設――その廊下を抜けると、薄い灯りのある空間に出た。

ゴーゴーという空気が抜ける音と共に、甲高い電子音が幾つも聞こえていた。

 そこは、大きな空間の外側につくられたような小さな部屋だった。

正面はガラス張りで、奥の広い空間が見えるようにつくられていた。

何となく水族館を連想させる造りだったけれど、目の前の檻の中にいるものは――子供たちだった。

 その光景は先ほどの残飯を漁る大人たちとは全く違う衝撃を、僕に与えた。

 大量のベッドが並べられ、その上で子供たちが眠りについている。

子供たちの体にはチューブや電線のようなものが大量に取り付けられていて、ベッドの横の機械と繋がっている。

 あのワイドショーで見たように、機械によって無理やり生へと、現実へと繋がれた姿は、見るも無残に弱々しかった。

 情けなく、惨めで、残酷で、悲しかった。

「ワンダーワールドへ招待した子供たちですよ」

 まるで買ってもらったばかりの玩具を自慢するみたいな喋り方だった。

「これが、僕たちのディドルディドルのやり方なんです。こうして子供たちを集めて、次から次へと夢の中へ――イデアの中へと送って行く。そうしてナーサリーが一杯になるまで、子供たちをワンダーワールドへと招待していくんです。ナーサリーが一杯になったら、眠っている子供たちを大人たちへと引き渡す。子供たちは手厚く保護されて、まるでお姫様のように丁重に扱われる。そして、ディドルディドルは次のナーサリーを見つけて同じこと繰り返す。雪かきや草むしりと同じです。ひどく面倒だけど、誰かがやらなければならない、そんな仕事なんですよ」

 少年は、まるで誰にも感謝されず褒められもしないことを、淡々とこなしているんだと主張した。

子供たちを夢の中に送ることを、誰かがやらなければならない仕事だと説明した。

 雪かきや草むしりをしているのだと。

「間違ってる。こんなこと、絶対に間違ってる――」

 僕は自分に言い聞かせるように言った。

 心地よさそうで、安らかに眠りにつく子供たちが、まるで冷たい墓石のように見えた 

そして、やわらかくてもろい卵に。

 僕はその卵が割れてしまうことを、中からどろりと黄身がこぼれだしてしまうことを、ひどく悲しいと思った。

それを、どうしても受け入れることができなかった。

「ダメだ。こんなやり方じゃ、絶対に子供たちは幸せになんてなれない。あの新世界は間違っていたんだ。全部が間違いだったんだ。こんなことに巻き込むために、子供たちをずっと眠りの中に閉じ込めておくために、あの新世界があったわけじゃない。ただ――」

シェイクスピア曰く――“もし私たち影法師の芝居がお気に召さないようでしたら、こう考えてください、そうすればお気に障ることもないでしょう。――うっかり眠ってしまい、今まで見たのは全部夢だったのだと”」

 スナークは心の底から愉快そうに――シェイクスピアの言葉を引用した。

「素晴らしいじゃないですか? 夢の中に間違いなんて存在するわけがない。何を見て、何をして、何を行っても自由なのが――夢なのですから。夢には“罪も罰”もない。一体、何を恐れているんですか、何が間違いだというんでしょう?」

「あの新世界は間違った夢の形だった。新世界は子供たちの欲望で壊れてしまった。全てを受け止めることなんて無理なんだよ。あんなところにいたら、みんな頭がおかしくなってしまう。現実に還ってきたときに、どうにかなってしまっているんだ」

「それでも、構わないじゃないですか? 全員、もれなくおかしくなってしまえばいいんですよ。だって、そうでしょう? こんな、くそ下らない世界は初めからおかしくなっているんだ。誰も螺旋を巻かず、歯車はすり減って、発条は明後日の方向を向いている――とっくに、時計の針は止まっているんですよ。だったら夢の中で痛みも苦しみもなく、幸せに暮らせばいいじゃないですか? 一体、何が不満なんですか? 何が気に食わないんでしょう? 僕にはまるで理解できない」

 僕たちは、まるで違う言葉で話をしているみたいだった。

 僕とスナークの言葉はどちらも一方通行で、どちらの胸にも留まらず、どこか遠くの方に消えて行った。僕たちのどちらもが一歩も相手に寄り添おうとせずに、自分の殻の中から出ずに言葉を交わしているせいなのか、それとも決して揺らぐことのない結論に根差してしまっているせいなのか――僕とスナークは対岸に立っていた。

 僕たちの間には超えることのできない壁が聳え立っていた。

「それに、もしもその新世界が間違いであったとして、神がその世界を失敗したとして、一体何が問題なんです? そんなもの、もう一度創り直せばいいんですよ。何度でも、何度でも、何度でも――それこそ、夢のような話じゃないですか? 見た夢が気に食わなかったのなら、別の夢を見ればいい。全て“夏の世の夢”だったと。芝居が気に食わなかったのなら、別の芝居を見ればいいんです。役者を変え、演出を変え、脚本を変え、監督を変える。そうでしょう?」

「僕たちは知らなかったんだ。イデアの中に深く潜った時、広がっていく世界は無限だと思っていた。永遠にも似た長い時間の中で、いつまでも夢の中で遊んでいられると思っていた。だけど、そうじゃなかった」

 僕は、震えながらあの日のことを思い出した。

 長い夢から覚めて現実に還ってきたとき、三年という膨大な時間が過ぎていることを、僕たちは知らなかった。

目は光に怯え、体はやせ細り、歩くこともままならず、腕を上げるだけで息を切らし、食事も喉を通らない――そんな情けない自分の姿に、僕は混乱した。戸惑い、後悔に暮れた。

 現実という重過ぎる重力に押しつぶされてしまいそうだった。

「そのことなら、もう心配ないんですよ。このカフカの蝶構想では深度十三階において人は肉体と魂とを別ち、魂はイデア集合知に呑み込まれることなく永遠に存在していられると、記されているんです」

 スナークは製本されたカフカの蝶構想を掲げて、それをまるで神の教えのように説いた。

ただの人が書き記したに過ぎないものを。

「そんな曖昧で確証のないものに縋ってどうするんだ? もしも、それがでたらめで、深度十三階でも肉体の死が魂の死だったら? 君が連れて行った子供たちが夢の中にいる間、現実の世界ではどんどん弱っていって、何も知らない間に死んでしまうかもしれないんだぞ」

「何を心配しているかと思えば、そんな下らないことですか?」

「下らない? 何が下らないって言うんだ」

「深度十三階において時間はほぼ無限と変わらない。現実での一秒が一億秒に相当する。現実での一秒が深度十三階では三年以上の月日になる。ようするに、深度十三階にいるだけで、この世界で何百回もの人生をやり直したってお釣りがくるぐらいの人生を歩めているんですよ。それで十分じゃないですか? それに、仮に深度十三階が、他の階層と同じように肉体の死が魂の死であったとして――死の恐怖を知らぬまま幸せのまま死に至ることができる、こんなに幸せなことが他にあるでしょうか? 本当に素晴らしい世界じゃないですか? ――O brave new world」

「何も知らぬまま、自分が死ぬことすら知らないままに死んでいくことが、幸せなこと? そんなこと――あるわけないだろ」

 あの新世界が壊れ、夢の終わりを告げた時――現実の世界で目を覚まさすことがなかった子供たちが多くいたことを、僕は現実に還った後で知った。

三万人もの子供たちがほぼ同時に眠りにつき、ほぼ同時に目を覚ました。

だけど、眠りから還らない多くの子供たちがいた――その事実を、僕は受け入れることができなかった。

 名前も知らない多くの子供たちが、自分の人生の意味も分からず、何も為さぬままに、知らぬ間に曖昧な死を迎えるか、迎えようとしている。

 僕にはどうすることもできなかった。

「分かってないんだよ。それは間違いなんだ。そんな世界を創りたいわけじゃなかった。ただ、みんなが幸せに遊べる場所が欲しかった。それだけだった。なのに、できた世界は間違っていた。あんな世界なら、いらなかった――」

 僕は心の内に仕舞いこんでいたものを吐きだすように、そう漏らした。

もうこの胸の中に留めておくことはできなかった。

 誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。

 それとも、ただ言葉にしてしまいたかっただけなのかしれない。

 たとえ、絶対に交わることのない考えを抱いている相手だとしても、対岸に立った者同士だとしても。

 何故か、いなくなってしまった友達に話しかけているような気が――

 

 ――“忘れないで”と、言われているような気がした。

 

シェイクスピア曰く“我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わる”――どうやら、僕たちの間には大きな隔たりがあるようですね。絶対に届くことのない場所から声を届けているような途方もなさを感じますよ。だけど、僕の考えは変わりません。僕はこれからも招待状を送り続け、笛を吹き続ける。僕たちは深度十三階に至ります。この神のいない世界を捨てて、神のいる――アリスのいる新世界に」

 スナークは両手を広げて確信的にそう告げた。

その妖しげな蝋燭の炎の灯った瞳には一点の曇りもなく、その小さすぎる背に大きすぎる嵐を背負っているように見えた。たとえ嵐の荒野に投げ出されたとしても、この美しい獣なら恐れも迷いもなく突き進むだろうと思った。

 僕は届かないと知っていたけれど、それでも言葉を紡いだ。

「スナーク、そこに神は存在しないんだ。どこにも、神なんていないんだよ。いたとしてもそれは不完全なもので、ひどく未熟な存在なんだよ」

「神は間違わない。神は過ちを犯さない。なぜなら、神の行いはその全てが正しいのだから。先ほども言ったように、気に食わなければ壊して、新しくやり直せばいい。何度でも、夢を見続ければいいんです。迷える子供たちはそれに従うだけですよ」

「もしも、神なんてものがいたとしたら――」

 恐らく、この場でスナークにかける最後の言葉になるだろうと思った。

この少年には伝えなければいけないと。、

そして僕自身に向けて、紡がなければいけないと思った。

「神は、もうとっくにこんな世界を見捨てているよ。この世界だけじゃない、夢の中だろうと、新世界だろうと――僕たちは、とっくに匙を投げられているんだ」

「おもしろいですね。まさに、“神は死んだも同然”――と、いう訳ですか? 非常に興味深い考察だ。一応、この胸に留めておきますよ。だけど僕の考えは変わりません。あなたは、一人、また一人と、子供たちが世界から消えていくのをこのくそ下らない世界から眺めていてください」

 スナークは胸のポケットから九つの針のついた懐中時計を取り出した。

「この懐中時計が、一体何を告げているのか分かりますか?」

 チクタク、チクタク――針の進む音がした。

「これは“終末時計”。全ての子供が夢の中、イデアの中に沈むまでの時刻を刻んでいるんですよ」

 チクタク、チクタク。

「今現在、五秒に一人のペースで子供たちがイデアの中に沈んでいます。単純な計算では、このままのペースでいけば百三十年後には全ての子供が眠りについてこの世界から消えてしまいます。数字上の話しなので、現実にはもっと何倍も速いはずです。そして僕たちディドルディドルは、この百三十年を十分の一に――十三年に縮めようとしているんです」

 チクタク、チクタク。

「十三年後、この時計の針が全て十二を指した時、全ての子供たち――コギトはイデアへと沈み、この世界は終末を迎えるんです。これこそが、ディドルディドルの創る新しい神話です」

 チクタク、チクタク――針の進む音が聞こえる。それは終末の足音だった。

「さようなら、老いた兎――もしかしたら、あなたはくそ下らない大人になってしまったのかもしれない。それでも、お話ができて楽しかったです。僕は遅刻してしまうのでこれで失礼させていただきます。おやすみなさい。よい眠りを、そして幸せな夢を」

 スナークは別れを告げ、背を向けて歩き出した。奥の扉を開いてガラスの向こう側へ、子供たちの眠るベッドの群れの中へと消えて行った。

終末への階段を下っていくように。

 僕はひどく疲れて途方に暮れながらも、それでも背を向けて歩き出した。僕とスナークは互いに背を向けて進んだ。まるで永遠に袂を分かつように。

 少年の言葉が、ひどくうるさく飛び跳ねていた。小人が僕の頭の中で踊っているようだった。その言葉を、自分のどの部分に落ち着けていいのか分からなかった。

 呆然としたまま施設の外に出ると、冬のような風にさらされた。

 僕の中で踊る言葉も、どこか遠くの方に吹き飛んでしまえばいい――そう思ったけれど、その言葉は今も僕の胸の中で居心地が悪そうに踊っていた。舞台を間違えてしまったみたいに。

「僕が大人になっただって? そんな、まさか――」

 ひどく重たいため息が、渇いた笑いと一緒にこぼれた。

 僕は大人になんてなれないでいた。それでいて、確かにもう子供じゃないかもしれない。

いつまでも子供のままでいられない――そんなことは分かっていた。

 子供でもなく、大人にもなりきれない僕は、一体何なんだろう?

 そんなことを考えても、一向に答えなんて見つからない。

 ここには解答なんてない。

 そして、どこにも解答はない。

 月を見上げてみても――

 

 ――そこに兎はいなかった。

 

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