iの終わりに~20話
第20話 ハンプティ・ダンプティ
第1話はこちらから読めます ↑
階段を上り、二階の廊下を抜けた先に大きな食堂があった。
不思議なことに施設の二階部分はまるで何事もなかったかのように綺麗なままだった。
外観とエントランスだけを荒廃しているように偽装しているみたいに。
電気の通った明るい電球、調節された空気、塗られたばかりのニスの匂い、足跡一つない廊下、磨かれた銀食器、暖かい食事――二十人は座れそうな大きなテーブルに僕たち五人が、顔を合わせてテーブルを囲んでいた。
フィンは相変わらず双子のような女の子の間に挟まれ、ほぼ無言で無表情のままぽつりと席に腰を下ろしている。僕の目の前にはスナークが腰を掛け、テーブルの上に本を置いていた。まるで祈りを捧げるための書物みたいに。
少年は純真無垢な微笑を僕に向けていた。
「どうしました、お食事は気に入りませんか? もう少しいいものを召し上がっていただきたかったのですが、残念ながらこの場所ではこれくらいが精一杯なのです」
スナークは心から申し訳なさそうにそう言った。
“これくらい”と言われた食事には文句はのつけようもなかった――芳ばしい香りのパンに、具のたくさん入ったシチュー、フレンチドレッシングのかかったサラダ、エッグスタンドに乗ったゆで卵、オレンジジュース。
ただ、恐ろしいほどにお腹が空いていなかった。
空腹をどこかに、あのがらんどうな部屋の中に置き忘れてしまったみたいだった。
フィンもほとんど食事を口にしていなかった。
「こんなところでどうやって暮らして? ここで何をやっているんだ?」
僕は食事の途中だったけれど、構わずに質問を口にした。
「このナーサリーには、現在百名程の子供たちが暮らしていて、ほとんどの子供は眠りについています。僕たちディドルディドルは各地にこのような拠点を持っていて、子供たちを保護しながらコギトやイデアへの啓蒙活動を続けているんです。このかつて発電プラントだった施設は、九番目の拠点だから“ナーサリー9”と呼んでいます」
「各地に拠点?」
「スポンサーがいるんですよ」
スナークの言葉を受けて、僕は車の中でのやり取りを思い出していた――“これはおじさまからの贈り物”、“良い子の子供にプレゼント”。
「まるで『あしながおじさん』みたいな話じゃないか」
スナークは気のきいた冗談を聞かされたみたいに微笑んだ。
そしてエッグカッターを使ってゆで卵の殻を割った。
「ええ、そうですね。『あしながおじさん』――言い得て妙ですね。でも、“アンクルサム”のほうが分かりやすいでしょうか?」
「アンクルサム?」
「冗談です。気にしないでください。混乱のある場所には市場が生まれやすい――ひどく下らない経済哲学ですよ。子供たちが眠るとそれが利益になる薄汚い大人たちがいる。それだけです。僕たち子供たちには何の関係もない、大人たちの醜い“椅子取りゲーム”みたいなものです。だけど、スポンサードをしてくれるというなら僕たちは喜んでその行為に甘えます。僕たちは子供なんですから」
「そんなの、結局大人たちに利用されているだけじゃないか? それよりも、本当に全ての子供を夢の中に、イデアの中に送ろうなんて考えているのか?」
スナークはにっこりと笑って革張りの本に左手を置き、まるで何かの宣誓をするかのように厳かな雰囲気を醸し出した。ひどく、演技じみていた。
「ええ。僕たちディドルディドルは、全ての子供たちをイデアの中に送り、その中で痛みも苦しみもなく幸せに暮らせるように最大限の努力をしています。そのためならば、多少現実で大人たちに良いように利用されようがまるで構わない。子ども扱いされることに腹を立てたって仕方ありません。実際子供なのですから。それに、こんなくそ下らない現実、偽りの世界での僕たちがどうなろうと全然かまわない。最終的には眠りの中に沈めばいいんです」
スナークもこの現実を偽りのように語った。
この現実こそが、仮初の世界であるかのように。
それを、ひどく恐ろしく感じた。
「僕たちディドルディドルの“絵本作家”が九人がかりで深度九階に創ったスフィア“ワンダーワールド”には、現在八千人の子供たちが集まっています」
「ワンダーワールドはとても楽しい遊園地」「潜水艦ノーチラス号で向かう海底二万哩」「ハイホーハイホー歌って踊る」「アトラクションと夜のパレード」「おみやげいっぱい「夢いっぱい」」
スナークの話に、トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーも参加して、歌うように声を上げた。
「子供たちは、今この瞬間も増え続けています。恐らく、ほどなくして一万人を超えるでしょう。しかし、深度九階ほどの階層では安定した夢の世界を――全ての子供たちに楽しんでもらうだけのアトラクションやエンターテイメントを用意しきれない。圧倒的にリソースが足りないのです。イデアの中で大きなスフィアを構成するだけの想像力をもったコギトは数少ない。スフィアが大きくなれば大きくなるほど、スフィアの世界観に歪みや矛盾が産まれ、綻んでしまうんです」
大勢の子供が集まって見る夢“スフィア”には、ある程度の法則や法令のようなものを必要とする。スフィアを創った夢の主――ディドルディドルでは、それは絵本作家と呼んでいた――が、スフィアに集まった子供の願望や欲望で壊れてしまわないように、ある種の制約を設ける。そして、その誓約をもってスフィアは形作られて維持され続ける。
それは道をつくることに似ている。
道路を整備し交通法規を設定する。信号や横断歩道を設置して、人や車の流れやコントロールする。事故や問題が起こることを防ぎ、円滑に交通が行われるようにする。車の量が増えれば後から道路を伸ばし、流れが悪くなれば高速道路を通す。
そうやってスフィアは増改築を繰り返して大きくなっていく。
だけど――
「子供たちの願望を全て受け止めるだけの強度が足りてないんだ。子供たちが増えれば増える程、子供たちの願望や欲望はよりいっそう大きくなる。ネズミ算式に。スフィアは卵の殻のように脆いんだ。こんな無茶苦茶なペースで子供たちを増やしていたら、いずれ割れてしまう。階層を下げるか、もっと大きな器を用意しないと。それでも――」
「ええ、現在のワンダーワールドはすでにパンク寸前です。たとえるなら、膨らませた水風船の中にさらに大量の水を注ぎこんでいるようなものでしょう。このままではほどなく破裂してしまう。深度九階程度の時間の流れと集合知のリソースでは、このあたりが限界です」
スナークは殻の割れたゆで卵の中にスプーンを入れて、ぐちゃぐちゃとかき混ぜ始めた。
半熟の黄身と白身が殻の中でぐちゃぐちゃと混ざり合う音が食堂に響いて、僕は気持ちが悪くなった。
「そこで、我々は深度を一つ下げ、十階に今よりも大きなワンダーワールドを創ろうと計画していましたが、その必要もなくなりました」
ぐちゃぐちゃと、世界がかき混ぜられる音が僕の頭の中に響きながら、スナークは確信的に僕たちを見つめている。
「我々はほどなく深度十三階に至る。そしてそこで神と邂逅して、この欠陥だらけの肉体という牢獄から抜け出すんです。僕たちは魂だけの存在になって、永遠の夢の中で暮らすんですよ」
どこか箍が外れたように言ったスナークは、脇に置いておいた革張りの本を手に取り、その表紙を僕に見せた。
赤い革張りの分厚い本の表紙には“大きな蝶”の絵が描かれていた。
そして、蝶の中には人が両手生足を広げたシルエットが描かれている。
タイトルには――
――Kafka's butterfly concept.
「僕たち子供たちは――新しい種たるコギトは、この“カフカの蝶構想”を新たなる教えとして、新しい書として掲げるんです。そして、今までこのくそ下らない世界でのさばっていた大人たちを見捨てて、新たしい世界に羽ばたくんですよ」
スナークは両手を羽のように広げた。
「そのためには、あなたたちお二人の力が必要だ。世界が固唾をのんで見守る国家プロジェクト、昏睡児童のサルベージ計画のダイバーに選ばれ、検査の上では深度十三階に至ることができると結果が出ている、黒兎――」
スナークはフィンの見つめながら熱っぽく言葉を続けた。
「そして、かつて神が新世界を創造した深度十三階、その場所にコギトで唯一至ることができた、白兎」
僕はそれを二度と思い出したくなかった。
忘れることができないと知っていてなお、忘れたいと思い続けてきたことを――今、鮮明に思い出していた。
「さぁ、全てのコギトたちを連れて神の元へ向かいましょう。お二人は子供たちを夢の世界へと誘う笛吹に、不思議の国へと導く兎になるんです――そして、深度十三階で新世界のアダムとイヴとなり、それを僕が記す。新しい神話を書き直すんです。僕たちの邂逅、これは神話前夜なんですよ」
少年は熱に魘されたように続ける。
「シェイクスピア曰く――“世界の関節は外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それをなおすために生まれついたとは”。このくそ下らない世界はもうじき黙示録を、終末を迎える。新世界への始まりのラッパの音は、すでに鳴っているんです」
スナークの箍は、少年の関節は完全に外れているように見えた。
世界が歪み、拉げ、捩じれて、ぐにゃぐにゃになっているみたい――僕自身が、何か大きなものの中に溶けていくみたいだった。
ぐちゃぐちゃと世界をかき混ぜる音が聞こえて、僕は思わずテーブルの上の食事をひっくり返してしまった。
エッグスタンドに乗ったゆで卵が転がりテーブルから落ちて割れた。
ぐしゃりと、ひどく気持ちの悪い音が響いた後、中からどろりとした黄身が流れ出した。
それを見た瞬間に、僕は体の中のものを吐きだしてしまった。
ほとんど何も食べていなかったので、胃液だけがみっともなく口から零れた。
スナークが目の前で微笑んでいるような気がしたけれど、僕にはどうでもよかった。
ただ卵が割れてしまったことが悲しくて――
――その割れた卵から目を離すことができなかった。
Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
kakuyomu.jp続きはこちらから読める ↑