目の前に広がる光景の全てが砕けていた。
何か大きなものが蠢めいて全てを踏み倒し、呑み込んでいった後のように――目に見えるものの全てが砕け散っていた。
今も天災の爪痕か、戦災の傷痕が色濃く残り、そのまま人々の記憶から消し去れてしまったような、そんな景色だった。
吹き付ける風は肌寒く四月の気候には思えなかった。
それはこの場所にだけ冬を閉じ込めて、春を沈黙させてしまったみたいだった。
遠くの方に見える折れかけた桜の樹の蕾は、まだ開いていなかった。
何だか永遠にその蕾が開かないような気がして、とても切ない気持ちなった。
ここは、まるで世界の極北だった。
「長旅お疲れ様です――ふぁふ」「半日ほど苦労様でした――ふぁあ」
同時に欠伸を噛み殺した彼女たちは、それぞれフィンの両脇に回り、フィンの両手を取って「さぁ、さぁ」「こちら、こちら」と、案内を始めた。僕も、その後を追った。
桜の樹を背にして歩き出した先には、半分倒壊して今にも崩れ出してしまいそうな大きな建物が建っていた。その先にも別の建物があり、さらにその先にも別の建物があった。
たくさんの施設が身を寄せ合っているみたいだった。
折れ曲がり地面に頭を垂れた鉄塔、並んだ三本のうち二本が原型を留めていない煙突、大蛇が絡まり合ったように伸びる錆びついたパイプ、内側から爆発したような球体の残骸――その全てが荒廃していた。
斜陽によって赤く染められた建物群は、今もなお天災の爪痕を、戦災の傷痕を引きずり、この瞬間も災禍の炎が燃え広がっているように見えた。
僕たちはひしゃげて捩じれた門の下を潜り、施設の敷地内に入った。
前を歩くトゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーは今も『マザーグース』を歌いながら、とても上機嫌でこの帰郷をよろこんでいた。
施設の入り口まで歩いていると、僕はあるもの見つけた。
「あれは、もしかして、人?」
施設の壁伝い、まだ倒壊していない庇のある空間に、もぞもぞと動く何かを見つけた。
青いシートでくるまり小さくなっている何かを指さした。
「ああ、あれですか?」「ああ、あれですね?」
振り返って僕の指を指す方向を見つめた二人は、きゃははと笑いながら言葉を続けた。
「ただのドブネズミですよ」「汚い汚いドブネズミですね」
「ドブネズミって、どう見たって人じゃないか?」
僕を信じられないと声を上げた。
「お気になさらずに、近づくと汚れますよ」「ナーサリーの中にまでは入ってきませんから」
二人はまるで興味もないと、再びフィンを伴って歩き出してしまった。
僕は呆然と“ドブネズミ”と呼ばれた人を眺めた。
どうやら、そこにいるのは一人ではないようだった――数人が身を寄せ合って小さくなっているように見えた。
僕は何か得体の知れない気持ち悪さと、どうしようもないもどかしさを感じながら、再び足を踏み出した。
何となく、まだ林檎を踏み潰した時の感覚が足の裏に残っている気がした。
施設の入り口は崩れていて、まるで獣がその牙を剥きだしにしているみたいだった。
捕食されて獣の胃袋に呑み込まれるように施設の中に足を踏み入れると、そこは広々とした空間だった。
しかし電気も通わず、非常灯もついていないその荒廃した空間は薄暗く、埃っぽい――崩れた壁の裂け目から灼い黄昏が入ってこなければ、伸ばした手の先も見えないような気がした。
正面から向かって左手には無人の受付があり、右手には長椅子がいくつも並んでいる――ほとんどの長椅子は壊れ、そこら中に転がっていた。長椅子の奥には広い廊下が伸びていて、その先は暗闇に閉ざされていた。
砕けたガラスや、展示されていたパネルや模型の残骸が散らばっていた。
「ようこそ、ディドルディドルのナーサリーへ」
詩を朗読するように朗らかな声が響き、何度も何度も木霊した。
淀んだ空間を満たすその声は、とても綺麗で澄んでいた。
「スナーク、ただ今戻りましたよ」「スナーク、ただ今戻りましたわ」
トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーが、弾んだ声で自分たちの帰郷を告げた。
僕は彼女たちが見上げた先、スナークと呼んだ声の主のいる方角に視線を向けた。
正面の幅の広い大きな階段を上った先――踊り場に腰をおろしていたスナークは、大きく両手を広げて歓迎のポーズをとった。
「ディー、ダム、二人ともおかえり。無事で何よりだよ。それに、お二人をお連れできてよかった。とてもお会いしたかった。本当に、ようこそ」
スナークが背にした壁には十字に亀裂が開いていて、そこから黄金の黄昏が差し込んでスナークを照らしていた。まるで何かに祝福され、福音を告げられているみたいだった。
逆光でスナークの顔や表情を窺うことができなかったけれど、彼がとても小さな子供であることは分かった。小さな子供は膝に乗せていた辞書のように分厚い本を音を立てて閉じると、立ち上がってゆっくりと階段を下り始めた。
「ここは、僕たち子供たちの夢の入り口“ナーサリー”。ここは全ての子供たちが永遠の楽園に沈むための方舟“ノーチラス号”。お二人を早々に“ワンダーワールド”にご案内したいのはやまやまなのですが、積もる話もあるでしょうし、僕からも、お二人にお話ししたいことがたくさんあります――とくに、白兎に」
階段を下りきったスナークは微笑を僕に投げかけた。
僕たちの目の前まで足を運んだスナークは、大人びた声や喋り方や、その洗練された雰囲気とは裏腹に、本当に小さ子供――幼気な少年だった。
全身を白い衣服で包み込んだ体は僕よりも小さく、年齢は中学生よりも幼く見えた。薄い肌の色に、女性のように長い髪、ヘーゼル色の大きな瞳、声を聞いていなければ一目では少年だとは気がつけないほど、中性的な容姿をしていた。
「今宵はささやかな晩餐を催して――“ディドルディドル”の開幕は時が満ちてからにしましょう。シェイクスピア曰く――“世界の関節は外れてしまった”。僕たちは、そんな世界に放り出された迷える子羊であり、孤独な孤島。だからこそ、羊を導く羊飼いが、孤島と孤島を繋ぐ橋が必要なんです。子供たちは。共に手を取り合って生きていく必要がある。まずは、それを知り、分かち合いましょう」
スナークは手を叩いた。
「さぁ、ディー、ダム、もうこんな時間だ――遅刻してしまう。お二人をご案内して」
スナークは胸のポケットから九つの針のついた懐中時計を取り出した。
一体、何をそんなに急ぎ、何に遅刻してしまうのか、僕には皆目分からなかった。
そして、永遠に分かりたくないと思った。
「遅刻ですわ、遅刻」「遅刻ですね、遅刻」「さぁ、お二人を」「ごあんなーい」「こちらですわ」「こちらですね」
何一つ分からないまま、僕は案内をされるままに足を進めた。
どんどんと森の奥深くに迷い込み、自分の力では到底抜け出すことができない所まで来てしまったみたいだった。
トゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーの陽気な歌声だけが、場違いなほど愉快に響き渡って、なおさらに僕を混乱させた。
彼女たちの歌を聴いていると、思考する力すらなくなってしまうみたいだった。
ひどく、眠いせいだ。
そう、自分に言い訳をした。
Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again.
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