泣きはらしたひどいの顔の私が帰宅すると、母が急いで玄関にやってきた。
そして私を見て顔を顰めた。
「どうしたの?」
「…………」
私は何も言わず、俯きながら早足で自分の部屋に戻った。夏緒さんに借りた大きめのTシャツを脱ぎ捨てて、部屋着に着替えてベッドに逃げ込んだ。何か音楽をかけようかと携帯電話に手を伸ばしたけれど、すぐにやめた。
携帯電話に入っている音楽の全てに素敵な思い出があったから。今はその素敵な思い出たちを素敵だと思えそうもなかったし、その思い出そのものを嫌いになってしまいそうだったから。
しばらくすると母が私の部屋の前にやってきて、小さくノックした。
「学校で何かあったの?」
沈黙。
「雨に打たれたんでしょ、風邪ひかないようにしないさい」
沈黙。
「晩御飯食べられる」
沈黙。
そうして母は部屋の前から去って行った。
そのしばらく後に弟の空が部屋の前にやってきた。
「姉ちゃん元気ないの? 具合悪いの……」
「しばらくほっておいて」
「今日の晩御飯、姉ちゃんの好きなトンカツだって。一緒にたべようぜ」
「いらない」
とぼとぼと弟は去って行った。
トンカツはぜんぜん私の好物じゃなかった。
それでも無神経が洋服を着てバットを持ったような弟までが、私に気を使ってくれたことに胸が痛んだ。
自分が腫物のように扱われていることには気がついていた。
それでも今は何も考えられなかった。
何もする気力がわかなかった。
仰向きになって天井を眺める。月に向かって手を伸ばすこともできそうになかった。
今日一日で私の素敵なものの全てをなくしてしまったみたいだった。
いや、みたいじゃない。
私は大切なものの全てをなくしてしまったんだ。
ハニーと喧嘩して、嫌われて、夏緒さんに八つ当たりのようなことをして、勝手に“夜間飛行”を飛び出して。もう“夜間飛行”に顔を出せそうもない。たぶんハニーとは、もう一緒にバンドをできない。
“南方郵便機”は目的地にたどり着く前に空中分解してしまったんだ。
エラ・フィッツジェラルドとレイ・ブラウンの結婚生活はたったの四年間しか続かなかった。 私たちはそれよりも短かったけれど、この破局は最初から決まっていたことなのかもしれない。
そう思えば少しは楽になるような気がした。
ふと、自分の部屋の中を見回した。
何でもいいから気がまぎれる何かを探した。学習机の一番下の引き出し。鍵のついた引き出しには、私の恥ずかしすぎる秘蔵の詩や物語がつまっている。そして夏緒さんが描いてくれた私の似顔絵が大切にしまったる。
部屋の隅にはシンセサイザーが置いてある。
私が中学生になり、吹奏楽部に所属してピアノの伴奏者に指名された時、母が“これなら部屋の中でも引けるでしょう”と購入してくれたものだった。我が家には立派なグランド・ピアノもあるけど、それはピアノをやめてから一度も弾いていない。
本棚に視線を向けると、たくさんの背表紙がとりとめもなく並んでいる。楽譜に漫画、小説、雑誌、アルバムなど。
そして本棚の一番目立つ場所には、私のお気に入りの小説が三つ並んでいる。
どれもサン・テグジュペリの書いたもので――“南方郵便機”。“夜間飛行”。“星の王子様”。
気がまぎれるどころか気が滅入るばかりだった。
私は今日、この三つをいっぺんに失ったんだ。
自分が何を失ったのか、どれだけ大切なものをなくしてしまったのかを考えて私は泣いた。
本当に空が落ちてくるみたい。たぶん違う、私が夜空から地面に落ちていくみたいだった。
夏が来る前に私の夏は終わってしまった。
私は、私の王子様だった人のことを考えながら、いつしか泣き疲れて眠りについていた。
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