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iの終わりに~16話

iの終わりに(完結済み) 小説

第16話 月の裏側

 

kakuhaji.hateblo.jp

 第一話はこちらから読めます ↑

 

 その高層マンションは灰色の墓標みたいだった。

 ずいぶんと時間をかけて、僕たちはようやくフィンと母親が暮らすマンションまで辿りついた。路肩にスクーターを止めてマンションの入り口まで進んだところで、僕はどうしようかと立ち止まった。振り返ってフィンの様子を窺った。

 こんな真夜中に、どこの馬の骨かも分からない男と帰ってきたりしたら、彼女の母親は何て思うだろうか? そして、僕は今日一日の出来事を彼女の母親に何て説明すればいいのだろう? そんな不安を抱く僕を、フィンは無言で追い抜きマンションのエントランスへと進んだ。

 大理石の床には赤い絨毯が敷かれ、高い天井にはシャンデリアのようなものがついていた。受け付けには人気は無かったけれど、恐らく二十四時間常駐した警備員が目を鷹のように鋭くして、このマンションの安全に従事しているのだろうと思った。

 フィンは慣れた様子でタッチパネル式の電子錠に暗証番号を打ち込んで、手のひらを翳して自動扉を開けた。まるでSFに見えた。

 先程から無言で先へ進む彼女に遅れないように、自動扉を潜った。

 フィンはエレベーターのボタンを押した。エレベーターのドアが開いて僕たちは無人の空間に足を踏み入れた。フィンが十三階のボタンを押すと、エレベーターは動き出した。

「あのさ、僕みたいなのが、いきなり君の家にお邪魔しちゃったりしたらさ、フィンのお母さんは何て思うかな? “こんな時間まで君を連れ回していた”なんて思って、僕のことをひどくろくでもない奴だなんて思わないかな? いや、ちゃんと説明すれば分かってもらえるとは思うんだけど、一応というか、念のために。ドアの外で待っていたほうがいいような――」

 エレベーターが十三階に近付くにつれてどんどんと増していく緊張に耐え切れず、僕は男らしくない言葉を並べ立てた。犬も食わず、猫も二度見して、馬に蹴られるような言葉を。

 フィンはそんな僕をちらりと見た。

「ねぇ、私そういう女の子が腐ったみたいな言葉ってすごくがっかりしちゃうの。そんなのを聞いているぐらいなら、延々耳元で豚の鳴き声でも聞いていたほうがマシってくらいに。だから、静かにしていてちょうだい」

 養豚場の豚でも見るような目――“かわいそうだけど、明日の朝にはお肉屋さんの店先に並ぶ運命なのね”って感じの――で、言われて、僕はしゅんとなった。

それ以上考えることをやめた。

 どうやらこのマンションに帰って来てからのフィンは、ご機嫌がだいぶ斜めのようだった。僕は何か気の触るようなことを言っただろうか? と必死に考えてみたけど、心当たりはあり過ぎるようで、何一つ思い当たらなかった。思い出してみると、まるで僕が喋った言葉の全てが、豚の鳴き声のように思えて仕方がなかった。ぶひぶひ。

 エレベーターが甲高い音と共に十三階で止まり、自動ドアがゆっくりと開いた。

フィンは無言で足を進めて、僕はまるで捨てられた子犬にでもなったような気持で彼女の背中を追った。

 何だか、急に読み合せていた台本が変わってしまったみたいだった――この台本には、僕が登場する余地がまるでないように思えた。

 フィンが十三号室の扉の前で立ち止まった。

俯いたまま、ドアノブをじっと見つめている彼女の様子がおかしかった。かすかに肩が震え、顔色は青白さを通り越して土気色で、赤い唇を血が滲みそうなくらいに噛みしめていた。

「フィン、どうかしたの?」

 ゆっくりと顔を上げた彼女の縋るような視線と頼りない表情が何かを訴えかけていた。

フィンが何かに苦しみ、必死に耐え忍んでいることに僕はそこでようやく気がついた。

「大丈夫?」

 尋ねると、フィンは自分でもどうしたらいいのか分からないというような表情を浮かべて、消え入りそうな声で何かを呟いた。

「ごめん、もう一度言って」

「――おねがい。この扉を開けて、先に部屋の中に入って」

 僕は先ほどまでの下らない考えの全てを忘れて頷いた。

 ドアノブを握りゆっくりと回した。

ドアを開いて、彼女が怯えている何か――待ち受けている何かと対峙するように視線を強くした。

 まず初めに現れたのは暗闇だった。

 玄関は真っ暗で、何かが淀んでいるように見えた。

靴の一つも並んでいない玄関は空っぽで、短い廊下の先の暗闇は更に深く、淀み切っているように見えた。

 暗闇の奥にかすかに見えるもう一つのドアの先を、僕は睨むように眺めた。

 リビングに繋がっているその扉を見た瞬間に、僕の目の前を黒猫が横切ったような、そんな不気味さを突然に覚えた。

僕は靴も脱がずに駆け出すように廊下を進み、震える手でノブを掴んで回した。

 そして、ゆっくりとその扉を開いた。

 僕は自分が何を目にしているのかまるで分からなかった。

 目の前に広がる光景に呆然と立ちすくんでいた。

「これは、ここは一体何なんだ?」

 立ちすくんでいる僕の脇を猫のようにするりと通り抜けたフィンは、開いた扉の先に広がる光景を、ただただ静かに眺めた。

そこは、ただのがらんどうだった。

 からっぽで、何もない、虚無の空間だった。

 引っ越しをする前の、何一つ家具のない部屋みたいに。

 ここには彼女の母親すら存在していない、まるでものけの空だった。

月の裏側みたいに静かだった。

 フィンはゆっくりと部屋の中を歩きだした。

別の部屋の扉を一つずつあけながら、まるで失ってしまったものに手を伸ばすように、思いを馳せていたものの感触を確かめるように、目の前の光景を信じられないというように、部屋の中をさまよった。

 僕は戸惑いで満ちていた――この部屋は、一体何なんだろう? フィンの母親はどこに行ってしまったんだろう? そもそも、本当に彼女はこの部屋で暮らしていたんだろうか?

 何一つ答えが出ないままフィンの後を追った。リビングの他に全部で三つの部屋があったけれど、その全てが無人で、空っぽだった――かろうじてトイレやバスルームには使用した形跡があり、トイレットペーパーや石鹸、シャンプーやリンスなどは揃っていた。

 キッチンだけは空っぽという訳ではなく、保存のきく食材――缶詰やインスタント食品が少しと、水のペットボトル、まるで被災地か避難所のようなものが、キッチンの脇に無造作に置かれていた。もぎたての赤い林檎がキッチンの籠の中に入っていて、それだけが唯一、この灰色の部屋の中に色を添えていた。他にも彼女の制服の予備や、下着類、毛布や櫛やドライヤーの類など、最低限の生活をするうえで必要なものは部屋のどこかに無造作に置かれていた。

 それでも、その空間はやはりからっぽで、がらんどうだった。

「ここにね、大きな机と椅子があったの――」

 リビングに戻って来たフィンは徐に喋り出した。

どこか箍が外れたような調子で――暗闇の中で淡々と言葉を落す彼女の姿が、まるで幽霊のように見えた。

「あそこに大きなソファーとティーテーブルがあって、食事が終わった後はお母さんが必ずおいしい紅茶を淹れてくれた。私はミルクとお砂糖をたくさん入れて飲むのが好きだった。でも、お母さんはミルクも砂糖も入れずにストレートで紅茶を飲んでいて、私はそれに憧れていた。いつか、私も紅茶をストレートで飲みたいって思っていた」

 フィンが記憶を辿り、思い出をなぞる様に指をさした場所は、からっぽだった。

 そこでようやく、全てが幻だったんだと気がついた。

 重度のイデア依存症が産みだす幻であったんだと。

 こんなに悲しいことがあるのだろうか?

「寝室では、いつもお母さんが物語を読んでくれた。子守唄を歌ってくれた。子供の頃から嫌な夢ばかり見てなかなか寝付けない私は、夜眠るのが怖くていつも泣いていた。だけど、お母さんの読んでくれた物語や子守唄を聞いていると、いつの間にか眠りにつくことができた。眠りの中で私は目を覚ますことをいつも心待ちにしていた。何でかしら? 目を覚ました時に、私が別の私になっているような、お母さんに心配をかけたり、困らせたしない、とてもいい子になっているような気がしたから」

「――もういいよ」

 堪らなく漏らした僕の言葉が聞こえなかったように、敢えて聞こえないふりをしたように、フィンが言葉を続ける。

「私はどんどん夜が怖くなっていった。夜眠って朝目を醒ますたびに、私の中の何かが一つずつ失われて、そこなわれて行くような気がした。私の中の螺旋が一つずつ抜け落ちていく、そんな感じがした」

 フィンがどんな顔をして話をしているのか分からなかった。

僕は彼女の顔を見ることができなかった。

「私はどんどんとおかしくなっていった。何をしても、何を言われても、何が起きても、何も感じなくなってしまった。螺旋が外れて、歯車が動かなくなってしまったみたいに。髪の毛はいつの間にか真っ白だった。お母さんはいつも私のことを気にかけてくれた。心配をしてくれた――それで、お母さんもどんどんとおかしくなってしまった。まるで私の螺旋が一つずつなくなるたびに、お母さんの螺旋も一つなくなってしまうみたいに」

「もういいよ」

 僕はひどく情けない声を上げた。

「おかしくなっていくお母さんを眺めると、私はいつも悲しくなった。だけど私はそんなことをどこか愉快に思っていた。私に対して必要以上に気を使って心配をしたり、腫物に扱うような態度で接するお母さんを見ていると、何だかおかしくて、それが愉快だった。でも、これ以上お母さんに心配をかけたくない、困らせたくいって気持ちもどんどんと大きくなっていった。どちらが本当の気持ちから分からなかったけれど、どちらも本当の気持ちだったと思う――ここからは話したかしら? それとも、私の頭の中で話したのかしら?」

「聞いたよ。現実で。フィンが嘘をついてまで、お母さんを安心させたいって、心配かけたくないって思ってることを、僕は君の口から聞いたよ」

「そう、よかったわ」

 何故だか、フィンが笑っているように見えた。

 暗闇の中でこの世の全てを笑っているような気がした。

 僕は想像した。

このからっぽの部屋の中で、ひとりぼっちの彼女が幻の母親に話しかけている姿を――学校での様子や、友達と遊んだこと、部活動での出来事を、そんな彼女の嘘を母親に話して必死に母親を安心させようと、ホッとした顔を見ようとしている健気な女の子を想像すると、僕は今にもおかしくなってしまいそうだった。

 全てを嘘で塗り固め、最低なことだと自分自身で理解していてなお、大切な人を安心させたいと思ったその全てが偽りだったなんて、からっぽだったなんて――一体、これは何なんだろうか?

 こんなことなら、フィンをここに連れて来るんじゃなかった。

 彼女一人だったら、この部屋に入った瞬間に幸せな幻の中に沈むことができた。

だけど、僕が一緒だったから――

「そんな顔をしないで。何となく、気がついていたのだけれど、一人では確かめられないし、確信できないから――だから、あなたに見てもらいたかったの。けっきょくの所、私には何もなくて、どこまでいっても私はただからっぽなだけだった。でも、よかったわ」

「よかった?」

 彼女の言っていることの意味が分からなかった。

「ええ、けっきょくのところ私にできたことなんて、迷惑をかけて嘘をつくことぐらいだもの。だから、ぜんぶが幻だったほうがいいのよ。ぜんぶが嘘で、ぜんぶがインチキで、ぜんぶがからっぽのほうが――そのほうが、私にはよかったのよ。本当にうんざりして、がっかりしちゃうんだけど」

「そんなこと言うなよ」

 僕は振るえる手で拳をつくり、力なくコンクリートの壁を叩いた。

「私ね、もう自分で言っていることの何が本当で、何が嘘だかも分からないの――だからね、悲しくも嬉しくもないの。何も感じない。からっぽなの」

「そんな言い方、あんまりだよ。こんな時ぐらい泣いてくれよ。そんな何でもないみたいな澄ました顔で、こんな悲しいことを言うなよ。もっと、怒ったり、悲しんだり、叫んだり、泣いたりしてくれよ。頼むから」

 僕の言葉に、フィンは困ったように肩を竦めるだけだった。

「ごめんなさい。私、もう涙も出ないの。やっぱり空っぽなのよ」

 一体、これは何なんだろうか?

 こんなものが現実なのだろうか?

 こんなものと僕たちは向き合わなくてはいけないのだろうか?

 こんなのものに向き合う価値なんてあるのだろうか?

 現実なんて、本当に必要なものなのだろうか?

 こんな世界なんて――

 

 London Bridge is falling down,

 Falling down, Falling down.

 London Bridge is falling down,

 My fair lady.

 

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