裏口から駐車場へと出た一郎は、当たりを見回しながらコンクリートの地面を静かに歩き出した。
どちらに行けばいいのかも分らず、これからどうすればいいのかも皆目分からない。直ぐに後を追うと言った衛宮は現れなかった。
彼が言った言葉が、一郎の頭の中で何度も木霊していた――
「次は、お前の番だ。奴らはテロの情報を掴んだ全員を殺す気だ」「直ぐに追いつく」「僕が援護する」「行け」
まるで悪い夢を見ているようだった。
それか安っぽいアクション映画を見ているような。
鳩原部長の端末にハッキングをした時から、自分の世界が変わってしまったみたいだった。
まるで別の世界に紛れ込んでしまったように。
白い兎を追って行ったわけでもないのに、一郎の人生は転落し続けていた。
今朝あれほど辞めたいと思っていた仕事や、昨日まで最悪に思えた暮らしが、途端に懐かしいものに感じられた。
二度と戻って来ない平穏の日々のようにも。
「……いや、それは違うぞ。昨日までの生活も、俺の仕事も会社も最悪のクソだ。平穏じゃない。でも……こんなは間違っている。人が死んだり、命を狙われたりするような、こんなのは絶対におかしい」
一郎は駐車場に止まった車の影に隠れながら、大きく頭を振った。
すると、少し離れた所から人の足を音が聞こえてきた。足音は複数あり、どんどんとこちらに近づいているみたいだった。
「どうしよう……見つかったら殺される」
一郎の脳裏に、頭を打ち抜かれた鳩原のことが浮かび上がった。
テロに加担していたとはいえ、あまりにも悲惨な最期だった。
こんなことになるなんて思いもしなかった。
一郎は近づいてくる足音に怯えながら、どうすればいいのか分からずにガタガタと体を震わせた。そして車のボンネットから顔を出し、近づいてくる足音の主を確認しようとした瞬間――後ろから何者かに口元を覆われ、地面に押し付けられた。
「んーんー、むー」
一郎は大声を上げようと体を大きく動かした。
「静かにしろっ。僕だ」
一郎の耳元に聞きなれた声がした。
「いいか、今から手を離すけど声は出すなよ?」
一郎は小刻みに頷いた。
「驚かせるなっ。死ぬかと思ったし、寿命が確実に縮まったぞ」
「後ろから声をかけたら、確実に悲鳴を上げてただろ?」
一郎は押し黙った。
「それで追手はどうなったんだ?」
「片付けてきた」
「片付けてきたって……殺したのか?」
一郎は尋ねた後、ごくりと唾を呑んだ。
一郎の目の前で、少なくとも今日四人の人間が死んでいた。
その中の三人は、今自分の目の前にいる男が殺したものだった。
衛宮蔵人は人を殺すという行為に対して、何の躊躇いや後悔を見せてはいなかった。ごく平然と、さも当然の事に様にそれを行っていた。
衛宮蔵人は自分とは住む世界が違う人間なのだと、一郎は改めて感じていた。
「今はこの場をやり過ごすことを考えろ」
「やり過ごすって……どうやって?」
一郎は足音のする方に気を向けながら言った。
足音は確実に近づいていた。
「身を屈めてついて来い」
衛宮が進みだし、一郎もそれに続いた。
少し大きめのワゴン車の脇に身を寄せ、衛宮は車を調べ始めた。
「イチロー、スーツを脱いでくれ」
「脱ぐって?」
「ジャケットを脱いで貸してくれ」
「分ったよ」
一郎は意味が分らぬままジャケットを脱いで衛宮に渡した。
それを受け取った衛宮はゆっくりと体を起こし、車の運転席のウインドウに一郎のジャケットを当てた。
「おい、何をするんだよ?」
「こうするんだ――」
衛宮は言いながら車のウインドウにおもいきり肘を落とし、窓ガラスを粉々に割った。
「おい、何やってるんだ」
「静かにしろ。ほら、早く乗れ」
衛宮は割った窓から手を入れて鍵を開けると、車のドアを開いて一郎を席に押し込んだ。そして自分も運転席に乗り込むと、どこからともなく万能ツール取り出し、それを鍵穴に差しこんだ。
ものの数秒で車のエンジンが動きだした。
「しっかり掴まってろよ」
いきなりアクセルを踏んでエンジン全開で走り出したワゴン車が、タイヤを滑らせる甲高い音と共に進んでいく。
「――イチロー、伏せてろ」
衛宮は前方に人影を見つけて言った。
言われるままに一郎が身を屈めた瞬間――今日何度目かの銃声が響き、車に銃弾が当たる金属音が続いた。
その後、車を鈍い音と衝撃が襲った。
それが人を跳ねたものだという事は理解していたが、一郎はそのことを問いただそうとは思わなかった。
これはもう、自分が知っていた昨日までの日常じゃない。
夜遅くまでの残業も、上司の嫌がらせも、孤独なコード書きも、帰宅してからの憔悴も、出社前の憂鬱も、駅のホームに飛び込みたいという衝動もないが――
それ以上の理不尽と不条理が存在する残酷な世界だ。
自分は逃れようのない何かの中にいる。
残酷な機械を動かす歯車に巻き込まれてしまったみたいに。
一郎はそのことを理解した。
「もう顔を上げて良いぞ」
衛宮に言われて顔を上げると、車は道路を走っていた。
「なぁ……一つ聞いていいか?」
「つまらない質問はやめてくれよ」
「どうして車の窓を割るのに、お前のスーツじゃなくて俺のスーツを使ったんだ?」
衛宮はその質問が気に入ったように、にやりと笑ってみせた。
「お前のスーツは三着一万円程度の安物の吊るしだろ? 僕のはオーダーメイドの特注品だ。価値を考えれば当然だ」
一郎は久しぶりに誰かを殴りたいと思ったが、もはや殴り方も分からなくなっていた。そもそも人を殴ったことすらなかった。
「それより、車の盗み方なんてどこで習うんだよ? 数分もかかってなかったぞ」
「数秒だ。まぁ、車種にもよるけどな」
「それはどうでもいい」
「そうムキになるなよ。車の盗み方だけじゃない。その気になれば飛行機だって盗めるし、操縦できるさ。イチロー、僕は必要なことは何でもやるって言っただろ? 言葉の通り、僕は何だってやる男だ」
その言葉を聞いた一郎は絶句した。
本能的に、その言葉に嘘はないと気が付いてしまったから。
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