夢を見ているみたいだった。
格子のついた窓が開いて薄手の白いカーテンがはためいていた。
淡い月の光が部屋の中に差し込み、銀色の砂をまいたように部屋の中を反射していた。
白いカーテンの奥には小さな人影があった。
音も気配もなくこの部屋に入ってきた誰かは、ただ静かに夜空を見上げていた。
そんな姿が、どこか寂しげに見えた。
まるで還るべき場所に手を伸ばし、ここではないどこかに思いを馳せているみたいに。
いつの間にか目を覚ました僕は、じっと彼女を眺め続けていた。
これが夢なのでは思いつつも、これが夢じゃないことを僕は知っていた。
僕の眼差しを肌で感じたようにゆっくりと顔を僕の方に向けて、黒い双眸に僕の姿を映した。
揺れていたカーテンが落ち着いて、月に光に映し出された彼女の全身が露わになると、フィンはまるで不思議な格好をしていた――全身を包み込む、黒いウェットスーツのようなに身を包んでいた。
フィンの喉元から、手の指先、足のつま先までをすっぽりと包み込んでいるそれは――まるで艶のある暗闇でできた薄皮を一枚纏っただけのように、彼女の体の線の全てを露わにしていた。撫肩の狭い肩も、小さな手足も、あばらが浮きだしそうなくらいに細くくびれた腰つきも、未発達でそこはかとない乳房も――彼女の華奢な体の全てが、はっきりと月明かりに下に映し出されていた。
「起こしちゃったかしら?」
フィンは静かに尋ねた。
まるで抑揚がなかった。
そして、やはり彼女の表情は無表情だった。
真っ白な髪の毛みたいに。
そんな彼女の表情や、声や、姿に、僕はものすごくほっとしていた。
「いつの間にか眠っちゃって、何となく目が覚めただけ。それより無事でよかったよ。どうしたら、フィンに会えるか考えてたんだ」
僕はベッドから起き上がった。そして、先ほど眠りにつく前に自分が考えていたことを思い出した。
僕は彼女を秤の上に乗せ、自分の損得なんてものを考えていた。
「隣、座る?」
僕はベッドから足を下ろし、それ以上何も語らないフィンに尋ねた。
フィンは無言で僕の隣に腰を下ろした。
僕たちはベッドに並んで座った。
「怪我しなかった?」
「ええ、少しかすり傷があったぐらい」
「足は大丈夫なの?」
「さっき治療してもらったの。腫れも引いているみたいだし、もともとたいしたことないって言ってたわ。もう歩いても大丈夫」
「そっか。その格好、どうしたの?」
「少しだけ検査みたいなことをしていて、検査の時にはこれを着るように言われているの。それが終わった後、そのまま来たから」
「検査って、“サルベージ”の?」
「聞いたのね?」
「うん」
「これはダイブスーツっていうらしいの」
「そうなんだ。本当に、そんなことに協力してるの?」
「協力っていうか、詳しいことはよく分からないの――でも、私が深く夢の中で潜ることで、その“計画”が成功するのなら、私は協力しても構わないって思っているの。どうせ、私にはやることなんて一つもないし、これといってできることもないんだから。こんなことを言うと、ものすごくがっかりした気持ちになっちゃうんだけど」
「――そっか」
“そんな言い方、するなよ”――そう言いたかったはずなのに、口から出た言葉は全く別の言葉で、全く意味もない一言だった。
「でもね、一度も成功したことないし、今はまだその時じゃないって言われているの」
「そうなんだ」
「あなたは、明日帰るのね?」
「うん」
「じゃあ、お別れね」
“お別れ”という言葉が、僕にシヲリさんの言葉を思い出させた。
「フィンはいつ帰れるの?」
「知らない。暫くは検査とかテストとかをするから、別の場所に移るって言ってたわ。だから、よく分からないの」
これで終わり。
ここでフィンと別れたら、もう二度とフィンに会えないかもしれない。
僕の手の中にはあの書庫の鍵だけが残っている。
僕が入学式の日に望んだように、僕だけの古い図書館が僕を待っている。
僕はたった一人で、誰かが書いた物語の中に沈むことができる。いつまでも、いつまでも――
――ここはあなたの夢の終わり、短い冒険の終着駅。さぁ、あなたはそっと扉を閉じて還るべき場所に還りなさい。
僕は、ここを夢の終わりにしたくないと思った。
ここを終着駅にはしたくないと、まだまだ続いていくものがあるはずと、そう思った。
僕の頭の中をぐるぐると巡っていたものを吹き飛ばすように、はまらないパズルの欠片を全部ひっくり返してしまうように、僕はシヲリさんの言葉を否定した。
「今から、君の家に帰ろう」
フィンは僕の言葉の意味が分からないというように、首を傾げた。
「僕は君のお母さんが待っている家に送って行くって言った。だから、今からでもその約束を果たしたいんだ」
「でも――」
その先を言い淀んだ。
「もし、フィンにとって迷惑だったら無理にってわけじゃない。でも、僕は君を家に送り届けなきゃって思っているんだ。送り届けたいって――」
僕は力強く行って続けた。
「何だか、フィンがここにいるのは間違っているような――僕たちが、何だかすごく間違ったものに巻き込まれているような気がするんだ。だから、もしフィンがここにいたくないって思うなら――一緒にここから出て行こう」
「いいの?」
彼女は僕を見つめて静かに尋ねた。
「うん。行こうよ」
「――お願い。私、もう、お家に帰りたい」
僕はフィンの冷たい手を取って部屋の扉を開けた。
重なった僕たちの手は震えていた。
僕の手が震えているのか、彼女の手が震えているのか、それとも二人の手が震えているのかは分からなかったけれど――
――僕は彼女の手を強く握った。
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