ひんやりとした心地よさを頬に感じて僕は瞳を開いた。
黒い双眸が僕を覗き込んでいた。
小さな手が僕の頬を撫でていて、もう片方の手は未だに僕と彼女を繋いでいた。
そのことに、僕は深く安堵した。
書架と書架の間から差し込む青い月明かりに照らされて、フィンと僕が繋いでいる片方の手が、ぼんやりとした銀色に輝いているように見えた。
「――フィン。よかった。起きたんだ?」
「あなたこそ、でも――」
彼女は湿布と包帯のまかれた足首を眺めて続けた。
「ずいぶんと迷惑をかけてしまったみたい」
「いや、気にしなくていいよ。体調と足はどう、まだ痛む?」
「大丈夫そう。眠気ももうないし、足の痛みもないみたい」
「本当に? 頼むから、さっきみたいなのは無しにしてくれよ」
「ええ、もう迷惑はかけないわ」
彼女は肩をすくめた。
「いや、迷惑とかじゃなくてさ。痛いなら痛い、何か困ったことがあったなら困ってる、助けてって、ちゃんと言って欲しいんだ。頼むよ」
暫く、フィンは僕を見つめたまま黙っていた。
「これからは、なるべくそうするわ」
彼女は一応僕の提案を呑み込んで承諾した。
「それで、その、迷惑をかけてばかりで、あれなんだけど――」
「いいよ、迷惑ついでだから何でも言ってよ」
「私のこと、送って行ってくれる?」
何て言うんだろう?
少しだけ嬉しい気持ちになっていた。
「自転車で来てるから二人乗りで帰ろうよ。きっとあっという間だと思う。駐輪場までは、僕がおんぶしていくよ」
僕がフィンに背中を向けて振り返えると、彼女は僕の小さな背中を眺めていた。
「女の子一人ぐらいなら背負って行けると思うけど?」
「そうじゃなくて、いえ、いいわ」
彼女は他に何か言いたいことがあったようだったけれど、それを口にはせずに僕の背中に手を回した。僕は立ち上がり、少し体を揺すってみて、バランスを確認した。
彼女はずいぶんと軽かった。
「どう、大丈夫そう?」
「ええ」
僕は歩き出した。
フィンは小さな子供みたいに足をぶらぶらさせていた。
「あんまり足をぶらぶらさせないほうがいいよ。どこかにぶつけたら危ないし」
フィンは大人しく足をたたんで僕の背中の中で静かになった。
僕は書庫の扉を開けて外に出た。
夜の帳はとっく下りていて、不気味なくらいに薄い三日月が曖昧に夜を照らしていた。
遠くに見える灰色の校舎が、何だか廃墟のように見えた。
まるで放棄されて忘れ去られた都市のように。
「それにしても、フィンは軽いね」
「そうかしら?」
「うん、かなり軽いと思うよ。ちゃんと食べてるの?」
「どうかしら?」
「食べなきゃだめだよ。家に帰ったらお母さんにおいしい手料理をつくってもらうといいよ」
「ねぇ、あなたは背負っただけで女の子の軽い重いが分かるくらい、この小さな背中に女の子をおんぶしているのかしら?」
「いや、そんなことないけど。だって本当に軽いよ? それより小さいって言うなよ」
「具体的な人数は?」
「具体的な人数?」
考えてみた。
「正確には覚えていないけど、小さい頃に妹をおんぶして、小学校の頃に運動会の種目でクラスの女の子をおんぶしたぐらいだと思うよ。だから、フィンで三人目だね」
「ふーん、私は三番目なわけね」
「三番目だね。まぁ、そんなに女の子を背負う機会なんてないしね」
「そうね、あなたはそんなに甲斐性があるようには見えないものね」
「そうだね」
僕はフィンが一体何を言いたいのかよく分からなくて、曖昧に頷いておいた。
こんな他愛もない会話がひどく僕を穏やかにしてくれた。
夜空に浮かぶ三日月が、そんな僕を見下ろしてくすくすと忍び笑いを漏らしているような気がした。
----------------------------------------------------------------
kakuyomu.jp続きはこちらで読めます ↑