ひとりぼっちのソユーズ Fly Me to the Moon~4

3 外国の女の子 

(今回はいっきにエピソード3から5までです。)

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第一話はこちらから読めます ↑

全九話です。

 

 

 3

 

 僕たちはいつも宇宙の話をして盛り上がった。

 

 同じ小学校に通っていたので、登下校の最中も、ちょっとした休み時間も、授業中にまで――休みの日も、公園で遊んでいても、音楽を聴いていても、僕たちはどうやったら月に行ってアメリカの陰謀を暴いてやれるのかってことを、夢中で考えた。

 

 クラスの中でユーリヤは人気者だった。

 

 変わった容姿をした『外国の女の子』――本当はハーフで半分日本人なんだけど。

宇宙に詳しくて、みんなが知らないことを少しだけ知っている、勝ち気なおませさん。人懐っこい性格で誰とでも気軽に話せて、誰とでも仲良くなれたから、男の子からも女の子からも好かれていた。

 

 着ている洋服はとにかくお洒落だった。黒くて長い柔らかな髪の毛は、いつも彼女のお母さんが丁寧に櫛をとおして毎日違う結い方をしていたから、クラスの女の子たちはみんなユーリヤのところに集まってお洒落の仕方を興味津々に尋ねていた。

 

 ユーリヤもまんざらではないって顔をして得意げだった。

 男の子の半分はユーリヤに恋していたんじゃないかって思う。

 

 それに何よりみんなの注目を集めたのは、彼女が自分で名乗る『名前』だった。

彼女の苗字はお父さんの方の『藤堂』って苗字だったんだけど――彼女は自己紹介の時、絶対に藤堂って名乗ったりはしなかった。

 

「ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナよ」

 

 ――って、少し澄ました感じで、お高くとまった自己紹介をするのが、ユーリヤ流の自己紹介のしかただった。

 

 クラスメイトは初めて知る外国の言葉に驚き、そして興味津々だった。

 もっといろいろ教えてほしいってせがんだりもされていたし、自分の名前もロシア語にしてほしいなんて子がダース単位で百人くらいユーリヤの所に殺到したんじゃないかって思う。冗談抜きで。

 

 そんな時のユーリヤはまるでクラスの女王様みたいだった。

 

 だけど、ユーリヤ自身はロシア語をそれほど上手く喋ることも、理解することもできていなくて――そのことを心の中では苦々しく、口惜しく思っていた。

 そしてそれが露呈してしまうことを、酷く恐れていた。

 

 ユーリヤは僕と二人でいるときなんかに、ロシア語の辞書をそれとなく眺めて勉強していた。

 

「もう、この辞書百回くらい読んじゃったし、内容なんて全部知ってるんだけど、正確な方がクラスのみんなも喜ぶでしょう? だから復習してるの」

 

 これがユーリヤのもっぱらの言い草だった。

 

 僕は彼女からこの台詞を千回くらい聞いたと思う。

 それに、こっそりと母親に自分の知らない単語の意味を尋ねたりしていた。それを直ぐに僕の目の前で披露したりするものだから、彼女がロシア語に不慣れで、それを必死に隠していることに気がつくこと自体は、難しくなかった。

 

 僕はそのことを絶対に口にしたりはしなかった。

 徹底的に気がついていないふりをした。

 

 それと、ユーリヤは生まれつきに体が弱かった。

 

 体育を毎回見学していた。

 プールにも入らなかったし、長い間日差しを浴びているのもいけないってお医者さんに言われていた。

 

 だから僕がたまに体育で活躍すると、ユーリヤはいつも不機嫌そうに唇をつんと尖らせて、僕に癇癪を起こしたりした。そうなると彼女は本当に手がつけられなくて、僕は毎回水をかけられた猫みたいにびっくりさせられた。

 

「私のスプートニクなんだから、私より速く走っちゃダメだし、私よりも運動ができてもダメなの。いつだって私の後ろを追ってこなきゃいけないんだから」

 

 それは無茶苦茶な言い草なんだけど――この頃の僕は本気で彼女よりも速く走ったり、運動が出来たりしちゃいけないんだって思っていた。

 

 だから、僕もユーリヤと同じように体育を見学出来たり、ユーリヤと同じくらい体が弱ければよかったのにってよく考えていた。本当に子供っぽい話なんだけどね。

 

 一度癇癪を起こしたユーリヤは、なかなか機嫌を直してくれず、声をかけても返事もせずに、僕の顔をろくに見ようともしてくれなかった。僕はあてもなくただひたすらに歩く彼女の背中を無言で追いかけたり、何も言ってくれない彼女の機嫌が直るまで、一時間でも二時間でも待ったりした。

 

 そうなった時のユーリヤの背中はいつも弱々しく震えていて、振り返った時にそこに僕がいなかったらどうしようって怯えているのが、幼い僕にだって痛いほど伝わっていた。

 

 だから、振り返った時にユーリヤが見せてくれるホッと安心した表情と、飛び切りの笑顔が僕はたまらなく嬉しかった。

 

 彼女のその笑顔が見られるなら、僕は何時間だって彼女の背中を追いかけて、何日間だって彼女の背中を眺めていたって構わないって本気で思っていた。

 

 ユーリヤの家ではよく映画を見せてもらったし、音楽も聴かせてもらった。たまに二人で公園へ出かけて行ったりもした。

 

 彼女のお気に入りの音楽は『Fly Me to the Moon』だった。

 

 古いジャズの曲で僕には何がいいのかさっぱりわからなかった。

 ユーリヤだってジャズの良さなんてこれっぽっちも分かっていなかったと思うんだけど、大人ぶってそんな曲をセレクトして僕を驚かせた。

 

 彼女が口ずさむその曲が僕は好きだった。

 

 映画はSFが多かったんだけど、彼女の好みは結構偏っていて、少しずつ歳を重ねて過激になっていく僕の趣味からすると退屈なものが多かった。

 

 ユーリヤは人間同士が宇宙で争ったり、戦争をしたりしないものが好きだった。

E.T.』、『コンタクト』、『未知との遭遇』、『2001年宇宙の旅』あたり。戦争みたいなものがあるにしても、エイリアンとかの宇宙人を人類が協力し合って倒していく、そんな映画を好んだ。『インデペンデンス・デイ』、『宇宙戦争』あたり。

だから『スター・ウォーズ』みたいに、知性のある者同士が宇宙で戦争を繰り広げるような映画は大嫌いだった。日本のロボットアニメ全般を親の仇のように憎んでさえいた。

 

 だからそういった類の映画やアニメを、僕は自分の家でこっそりと見て、それを見たことさえユーリヤには伝えなかった。

 

「宇宙に出てまで人が争うなんてナンセンスよ」

 

 一度お互いの好みについて語った時に、ユーリヤは憤慨しながら言った。

 

「だって宇宙には国境もないし、宗教もない、肌の色の違いだって関係ないのよ。神様だっていないんだから。それなのに、この狭い地球の下らないことを宇宙にまで引っ張っていってどうしようっていうの? 本当に想像力の欠片もないんだから」

「でも、『ライトセイバー』とかカッコいいじゃん」

 

 この時の僕は、初めて見たスペース・オペラに感動して、負けじと言い返した。

 

「僕も『ジェダイの騎士』になってフォースが使えたらいいのにな。フォースの共にあらんことを」

「馬鹿みたい。『ダークサイド』に堕ちちゃいなさいよ」

「それにロボットとかも操縦してみたいな。大気圏に単機で突入するとかすごくない?」

「カッコよくないし、全然すごくない。重力の井戸に魂を縛られているだけよ。男の子って本当に子供だから嫌になっちゃう」

 

 ユーリヤは不機嫌そうに言ってそっぽを向いた。

 

「それに、宇宙は静かじゃなきゃダメなの。平和じゃなきゃ、絶対ダメなんだから」

 

 そう言ったユーリヤの言葉はどこか切実で、どことなくすがりつくようだった。

 彼女の心の中に、少しずつ暗い影みたいなものが差しこんでいて――彼女の中に広がる空を曇らせはじめていた。 

 

 4 無重力

 4

 

 小学生の高学年に上がり中学生を目前に控えると、僕とユーリヤの関係はどんどん複雑になっていた。僕たちの関係がというよりは、僕たち自身が複雑になっていったんじゃないかって思う。

 

 この頃になるとユーリヤはもうアポロ11号のインチキや、アメリカの陰謀の話なんてしなくなり、もっと実用的で専門的な宇宙についての知識を学び出していた。

 

 彼女はどんどんと先鋭的になっていった――とにかく先へ先へと、未知の空間を切り開き突き進んでいるように見えた。

 

 僕はというと、彼女のその日に日に増していく情熱とそれが齎す推力に半ばついていけずに、必死にしがみついているだけで精一杯だった。

 

 アストロノーツとしては完全に失格で、スプートニクとしてはボロボロだった。

実物のスプートニク1号は宇宙空間に打ち上げられた後、五十七日後に大気圏に再突入して消滅した。

 

 むしろスプートニクとしてはもったほうなんじゃないかって思う。

 

 それに小学生の高学年にもなって、女の子といつまでも登下校をしていたり、女の子の背中にくっついて歩いているというのは、なかなか恥ずかしいことで――そのことで周りから冷やかされたり、からかわれたり、時にはいじめられたりと、悲惨で情けない思いをすることも多かった。

 

 ユーリヤも今までは自然とクラスメイトに溶け込み、馴染めていたはずなのに――段々とそれが出来なくなっていた。

 

 彼女の妙に大人ぶった澄ました態度は、時折周りの女の子から反感を買うようになった。次第に女の子たちに除け者にされたり、些細で心無いあてこすりのようなことを言われることも多くなった。

 

 ユーリヤはそれを取るに足らない、まるでどうでもいいことのようにあしらい、必死に気にしないふりをしていた。

 

「もう少し、クラスに溶け込んだ方がいいんじゃない?」

「溶け込んでどうするのよ?」

「仲よくすればいいよ」

「今より余計に反感を買うだけよ」

「少なくとももう少しみんなに合わせるとかして、妙に澄ましたりするのはやめた方がいいんじゃないかって思うよ」

 

 僕が心配してそんな会話をすると、ユーリヤは毎回激怒した。僕はめげずに声をかけ続けた。ぴたりと閉じてしまった扉を叩き続けるみたいに。

 

 だけど、その怒りがある境界線を越えた時、彼女は突然金切り声を上げた。

 そして、いつも以上に興奮して言葉を捲し立てた。

 

「うるさい。うるさい。うるさい。うるさいのよ」

 

 それは踏みいれてはいけない場所に足を踏みいれた――そんな感じの怒り方と拒絶の仕方だった。

 

「何で私があんな子供っぽい、程度の低い子たちに合わせなきゃいけないの? 私がみんなと違う目の色をしているからなんだっていうの、私がみんなと違う肌の色をしているからなんだっていうの、私がロシア人だったら、なんだっていうのよ。本当に下らない。みんな子供なのよ。馬鹿みたい」

 

 その時初めて、僕はユーリヤが自分のことを〝ロシア人〟と言ったのを聞いたと思う。

 

 彼女が発したその〝ロシア人〟という言葉は、とても冷たかった。

 

 まるでユーリヤがどこか遠い場所に――飛び散った雫の先、寒く閉ざされた声も届かないどこかに行ってしまったんじゃないかって、すごく不安になった。

 

 そして、そんなふうに一度何かがちぐはぐになってしまうと、それを元通りにすることはもう無理なんじゃないかって思えた。

 

 僕たちは複雑にこんがらがってしまったんだってことを、僕は嫌というほど思い知らされた。一度絡まった糸を解こうとすると、余計に絡まってしまうみたいに。それはもう二度と元に戻らない類の絡まり方みたいだった。

 

 そんな状況にどうしたらいいのか分からなくなった僕は、小学六年生の最後の運動会――百メートル走を全速力で走ろうって、漠然と思いついた。

 

 毎日放課後に一人で練習をしたりして、とにかく早く走るんだって――何度も何度も自分に言い聞かせた。

 

 多分、いろいろうまくいかないこと、ちぐはぐなこと、こんがらがってしまったことを忘れたくて――そんな下らないことの全てを振り切りたかったんだと思う。

 

 そして、もう一度ユーリヤの背中に追いつきたかった。

 だから、全速力で走ろうって思い立った。

 

 ピストルの音が鳴って駆けだした僕は、ユーリヤと出会ってから初めて本気で走った。

 

 全速力で走るトラックは、何だか特別な場所のように見えた。

 足と腕が勝手に動いた。どうやって走っているのかなんて全然分からないんだけど、それはとても自然でそしてとてもスムーズな動作だった。

 

 僕の体は前へ前へと進んで行った。

 

 僕の体はとても軽くて、まるで無重力の空間を、月の上を自由に飛び跳ねているような気さえした。

 

 それはとても心地の良い一瞬だった。

 ゴールテープを切った後、大きく肩で息をして流れる汗が垂れていくのを感じた時、僕は不意に気がついた。

 

 ああ、僕は大きくなっていたんだなって。

 きっと、今の場所に留まっていられないほどに、僕は大きくなったんだなって。

 

 今までユーリヤと一緒に、まるで双子のように一緒に成長してきた僕の体が、彼女よりも一回り大きくなっていたんだってことに――僕は初めて気がついて、自覚した。

 

 それはとても悲しいことだった。

 

 僕と彼女のその差が、まるで僕と彼女を隔ててしまう大きな壁のように思えたから。

 

 僕の立っている地面だけが盛り上がり、彼女を置いて高く聳えていく。

 その隔たりを僕よりも感じていたのは、きっとユーリヤだった。

 

 一等賞の金メダルを手にした僕は、運動会を見学しているユーリヤに一秒でも早く会いたくて駆けて行った。

 

 彼女との距離を少しでも縮めたくて、僕たちの前に聳えた壁を壊したくて、とにかく僕はユーリヤの所に急いだ。

 

 見学席に一人ぽつんと座っていたユーリヤは、僕の顔を見て直ぐにそっぽを向いた。彼女の機嫌が悪いことは一目瞭然だった。彼女の機嫌が直るまで彼女の隣に座って彼女の背中を眺めているのが、僕達のいつものやり方だった。

 

 だけど生まれて初めて手にした金メダルの喜びに興奮していた僕は、我慢できずにユーリヤに声をかけた。

 

「ねぇ、僕の走り見てた?」

 

 ユーリヤは背中を向けたままだった。

 

「一位だったんだよ」

 

 僕はめげずに声をかけた。

 

「ユーリヤ、ほら見てよこの金メダル」

 

 突然振り返ったユーリヤの灰色の瞳には、何だか得体の知れないものが渦巻いていて、僕はその瞳に絡め取られ、呑み込まれてしまった。そこに込められた感情は、複雑な斑模様を描いていた。

 

 僕には彼女が怒っているのか、悲しんでいるのか、嫉妬しているのか――泣きたいのか、叫びたいのか、全く分からなかった。

 

 彼女自身も、自分の感情をどう扱っていいのか分からずにいるみたいだった。

 ユーリヤは僕が手に持っていた金メダルを勢いよくひったくると、それを地面に叩きつけた。

 

 僕は驚いて何も言えず、ユーリヤは一瞬「どうしよう」って顔をしたけど――もう後には引けないって感じで唇をつんと尖らせた。

 

「何よ……こんなもの。ただの紙で作ったガラクタじゃない。それに、たかが駆けっこで一位になったのがそんなに嬉しいの? 本当に子供なんだから。馬鹿みたい」

「そんな言い方……しなくたって」

「本当のことでしょ」

「でも、一生懸命走ったんだよ」

「たかが運動会ぐらいではしゃいで、子供じゃない」

 

 彼女はそう言うとつんとそっぽを向いた。

 

「自分なんかいつも体育見学して、ろくに走れもしない癖に」

「何ですって?」

 

 僕の言葉に彼女は目を剥いて反論した。

 

「別に……体育なんて出たくないわよ、走りたくなんて全然ないんだから。そんなのちっとも面白くないし、意味なんてないじゃない。それより、あなたは私のスプートニクなんだから、私より先に行って、私より速く走ったりしたらダメなんだって……約束したじゃない」

 

 金切り声を上げたユーリヤの灰色の目は滲んでいた。

 声はこれ以上ないくらいに震えていた。

 

 だけど、僕も興奮していてもう歯止めがきかなくなっていた。

 

スプートニクって……まだそんなこと言っているのかよ」

「え?」

 

 ユーリヤの表情が一瞬で凍りついた。その後で、線の細い体がバラバラになってしまいそうに震えた。まるで大きなトンカチで叩き割られてしまうみたいに。

 

 そんな青ざめた彼女を見た僕は、どこか勝ち誇ったような気持ちになっていた。自分の感情をどう扱っていいのか分からずにいた。

 

スプートニクなんか知らないよ。僕の方がユーリヤより速く走れるんだ。もう、僕はユーリヤのスプートニクなんかじゃない」

 

 僕はとても意地が悪くなっていた。心が凍りついてしまったみたいで、そして砕けてどこかに飛び散ってしまったみたいだった。

 

「ユーリヤの方が、全然子供だよ」

 

 それを言った瞬間に――何かが決定的に壊れてしまった音が聞こえた。

 僕の震える手の中に、何かを壊してしまった時の、あのたとえようのない感触が、気持ちの悪さがあった。

 

 僕たちが必死になって積み上げてきた、築き上げてきた宇宙へ向かう塔は、そこで完全に壊れてしまった。

 

 二度と元に戻ることができないほど粉々に。

 

 そして離れて行ってしまうものに、バラバラになってしまうものに手を伸ばせるだけの勇気が、あの頃の僕には無かった。

 

 泣き出して、来賓席の方に駆け出していくユーリヤの小さな背中を、僕はただ茫然と見送ることしかできなかった。

 

 あんなに速く走れたはずの僕の足が、あの時はただの一歩も踏み出せなかった。

 

 地面に転がっている金メダルを拾い上げた時、僕はどうしてユーリヤに一秒でも早く会いたかったのか、その理由を思い出した――

 

 ――この金メダルを、彼女にあげたかった。

 

 

     5 ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン

 

 

 5 

 

 中学生に上がると、僕とユーリヤは会話すらしなくなっていた。

 

 同じ中学校に通っているのに――もう一緒に登下校をしたり、休みの日に彼女の家に遊びに行ったり、二人で宇宙の話をして盛り上がったりなんてことは一度もなく、以前にそんなことをしていたことが嘘みたいだった。それは何万光年も離れた場所で起きた、遥か彼方のことなんじゃないかってくらいに。

 

 結局、彼女と一緒に登下校をすることも、休みの日に二人で遊ぶことも、二度となかった。

 

 ユーリヤは中学生になると、今までよりもどんどん大人っぽくなって、綺麗になっていった。

 

 女の子じゃなくて女性になっていく、そんな感じだった。

 

 学校で話題になることもしばしばあった。

 家が近所で小学生の頃に仲が良かった僕に――彼女を紹介してほしいなんて言ってくる男子生徒も何人かいたけど、僕は適当なことを言ってはぐらかした。

 

 そんな時、いつも僕の胸は痛んだ。

 

 僕はどんどん綺麗になっていくユーリヤを眺めているのが、いつの間にかつらくなっていた。

 

 彼女は成長すれば成長するほどに、美しさを手に入れれば手に入れるほどに、孤独で人を寄せつけなくなっていた。

 

 いつも一人でいたし、必要最低限の人づきあいしかしなかった。氷を張った池みたいな灰色の瞳は人を寄せつけなかった。長い冬が訪れたような冷たい表情と白い肌、感情をおもてに出さない態度が、他者とのかかわりを拒絶していた。

 

 彼女は「自分の隣には誰も必要ありません」みたいなスタンスを徹底的に貫いていた。

 

 だけど、どうしてだろう? 

 遠くから眺めることしかできない僕の目には――彼女の背中が前よりも小さく、弱々しく見えていた。寒さの中で凍えているみたいに。

 

 そして、彼女はやっぱりいつも体育を見学していた。

 

 校庭の遠くの方から所在無さ気に一人ぽつんと座っているユーリヤは、まるで中身のないマトリョーシカみたいに見えた。それはとても孤独で空っぽなマトリョーシカみたいだった。

 

 ユーリヤはもうあの自己紹介をしなくなっていた。

 

 ――ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナ。

 

 彼女が自分で自分につけた素敵な名前。

 僕が大好きだった彼女の名前を――彼女はもう名乗らなかった。

 

 彼女はしっかりと、そして完璧な日本語で「藤堂ユリヤ」と――本名で自己紹介をするようになっていた。

 

 そしてそれを名乗る時の彼女は、感情さえも失ってしまったみたいに無表情で、まるで氷の仮面をかぶっているみたいだった。

 

 いつもクールで澄ましている彼女は――「藤堂ユリヤ」という氷の仮面をかぶることによって、『ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナ』であった時の感情や記憶や、思い出や、情熱を長い冬の中に閉じ込めて、忘れ去っているんじゃないかって。

 

 ――ユーリヤ・アレクセーエヴナ・ガガーリナ。

 

 彼女のその名前の意味を、この頃の僕はもうとっくに知っていた。

 

 ――ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン

 

 世界で初めて宇宙に行ったロシアの宇宙飛行士の名前。

 彼女がどれだけの思いを込めて、その宇宙飛行士に自分を重ねていたのか僕には分からない。

 

 だけど、そう名乗らなくなった彼女は、もう全ての情熱を、月へ向かうエネルギーのようなものの全てを失っているようにさえ見えた。暗く冷たい宇宙空間の中で、地球の周りをただ漂い続けるデブリのみたいに。

 

 中学二年生に上がると僕たちは別々のクラスになった。

 

 それで、そんな彼女の姿を眺めることも少なくなり、僕もユーリヤのことをあんまり考えないようになっていった。

 

 それは長い冬の間に忘れ去られて、次から次へと訪れては移ろう季節に流されていくようだった。

 

 新しい色々なものが、どんどんと僕の中に入り込んで来る。

 新しいものがどんどんと僕の中に重なり、積み上がっていく。

 幼い頃の感情だったり、思い出だったりが、少しずつ霞み、新しい思い出の中に埋もれていく。

 

 そしてそれに苛立ち、それを寂しく思いながらも、僕にはどうすることもできなかった。

 

 手を伸ばすことも、耳をかたむけることも、振り返ることも、追いかけることもできず――ただ茫然と新しいものの中で、新しい自分と、新しい日常に流されるだけの日々が続いた。

 

 僕たちは引かれてしまった『国境線』のこちら側と、向こう側にいた――

 

 ――そして、お互いに背を向けて歩き出していた。

 

 

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