中野坂上駅で下車した一郎は自宅へと急いだ。
一刻も早く自宅に帰って一息吐きたい。
それだけで頭が一杯だった。
駅から徒歩五分の賃貸マンションまでの道程が、ひどく長く感じられた。まるで永遠に辿りつかない場所を目指しているかのようだった。
細くなった街路を歩きながら、一郎は当たりを見回してみる。
いつもと違った点はないか、自分を尾行している人影はいないかと目を配った。途中小さな物音がしたが、塀をよじ登る黒猫だった。
ようやくマンションに着くと、一郎は安堵の息を吐いた。
入り口を抜けて階段を上る。ところどころひび割れたマンションの壁を眺めながら、三階の角部屋まで重い足を引きずった。
マトリクス社に入社する際に契約した賃貸マンションだった。
古びた外観のオートロックすらないマンションだが、中野坂上では格安とも言える家賃六五千万円。広々とした1DKの間取りで、三十件以上の物件を内見した末に決めた部屋だった。
「あれっ、おかしいぞ?」
そんな愛着のあるマンションに帰って来た一郎だったが、直ぐに異変に気が付いた。
ピンク色のペンキが塗られたドアの前に立ち、そのドアノブを凝視する。
ドアノブの周りのペンキが所々剥げ落ち、ノブの取っ手に落ちている。
その事が気にかかった。
このペンキの剥げは、毎朝一郎が部屋を出るたびにしっかりと落していた。そしてペンキが剥げ落ちるのは、新しくドアノブを回した時だけ。
誰かがこのドアノブを回したのだ。
いったい誰が?
一郎は当たりを見回した。
何かがおかしい。そう思ってドアの前から一歩二歩と後ずさった。マンションの廊下から身を乗り出して街路に目を向けると、少し遠の方に停車しているバンを発見して、一郎の猜疑心は膨らんだ。
「あんなバン見たことないぞ?」
ここら辺の道路は道幅が狭く一方通行が多いため、路上駐車を見かけることはあまり無かった。それに近くにはコインパーキングがいくらでもある。
あんな会話を聞いた後だから、脅迫観念に駆られているだけだ。
ドアノブのペンキは、風に吹かれて剥がれただけだ。
あのバンだって、たまたまコインパーキング満車だっただけだ。
そう思いたかったが、どうしても自分の部屋のドアノブを握ることが出来なかった。
このドアを開いたら最後、二度とこの部屋から出られないような気がして仕方がなかった。
一郎は足音を立てぬように来た道を戻り、ポケットの中からスマホを取り出した。そして、震える手でスマホの電源を入れてアプリを起動する。
一郎は階段の隅に身を寄せ、廊下の先の自分の部屋と、道路に止まった謎のバンを交互に監視した。
アプリが起動すると暗い画面が映り、一郎はその画面を凝視した。
スマホの画面には、一郎の部屋の中が映っていた。
そのアプリは、一郎の部屋に置かれたパソコンのウェブカメラを起動するアプリだった。
一郎の部屋に置かれた三台のパソコンに搭載されたウェブカメラの映像が、リアルタイムで一郎のスマホの画面に映し出されている。
「……何だ? 何かが動いるみたいだぞ?」
暗くて良く確認できないが、真っ暗な部屋の中で何かが動いているみたいだった。
黒くて大きな何かが、まるでミノムシのようにもぞもぞと。
それが、人影だという事には直ぐに気が付いた。
「そんな、誰かが……僕の部屋にいる?」
一郎はスマホの画面を見つめながら愕然と言葉をこぼした。
「早く警察に?」
そう思ったところでスマホが震えた。
着信だった。
相手は鳩原だった。
その瞬間、一郎の頭にテロに二文字が鮮明に浮かびあがぅた。
「僕があの会話を聞いたことがバレたのか? もしかして、僕の部屋にいるのはテロリストなのか? 嘘だろ。どうして?」
一郎は激しく狼狽し、それと同時に鳩原からの着信を切った。
再び画面がウェブカメラの映像に戻ると、そこには黒いマスクで顔を隠した何者かが映っていた。
カメラを通してこちらを見ている。
「ひっ。ばれた?」
悲鳴を上げると共に、一郎は階段を勢いよく下り始めた。
背中から、ドアが開いたような大きな音が聞こえた。
「どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう?」
階段を下り終えた一郎はマンションの入り口には向かわず、ゴミ集積場のある裏口へと向かった。そして、ゴミ集積場を抜けて細い街路に出ると、謎のバンの止まっている方角とは反対に向けて駆け出した。
街路を右に左に駆け抜けながら、一郎はどこか身を寄せられる場所はないかと辺りを見回した。ここら辺の地理は調べ尽くしているはずのに、どこに逃げればいいのかまるで分らずにいた。自分の足音以外にも誰かの足音が聞こえた。車の走る音も聞こえる。怖くて振り返ることが出来ず、とにかく走り続けた。
「あそこだ」
一郎は工事中の建物を見つけて、どこかに入れる場所はないかと探した。どうやら建設中の建物のようで、ブルーシートに覆われた資材の隅に身を潜めた。
「ここなら、しばらくは見つからないはずだ」
一郎はガタガタと震えながらスマホをいじり、どうしようと考えた。
警察に電話して助けを求めるか? しかし、そうすれば会社にハッキングした件も含めて洗いざらい話さなければならない。誰かに助けを求めなければ、自分は殺されてしまうかもしれない。
まさか、殺されるのか?
「どうしよう? どうしよう? どうしよう?」
混乱した一郎は、縋りつようにとある男性に電話をした。
『もしもし――』
「えっ、衛宮っ?」
一郎は相手が電話に出るなり縋りつくように名前を呼んだ。
彼の名前は衛宮蔵人。
ほとんど顔見知りというだけの相手だった。
「衛宮……たっ、助けてほしいんだ。俺、追われているんだ。頼む……助けてくれ。どうしたいいのか分らなくて。殺されるかもしれない」
『イチロー、今どこだ?』
電話の相手は余計な詮索などしないで簡潔に尋ねた。
「今……自宅の近くの工事現場にいる。建設中のビルみたいで、その資材置き場に身を隠しているんだ」
『自宅は中野坂上だったな?』
「そうだ。来てくれるのか?」
『ああ、今から急いでそっちに行く。ここからだと二十分程度かかるが、それまで見つからずに済みそうか?』
「分らない。何が何だか分からないんだ。俺は……ただ上司の端末に侵入して、それで会話を聞いて、それで――」
一郎は事情を説明しようとした。
『その話は会ってから聞く。今から急いでそっちに向う』
「分った。ありがとう」
『スマホの電源は消しておけ。探知されているかもしれない』
「探知? でも、それじゃあ――」
『大丈夫。必ず僕が見つける。今から三十分経っても僕が現れなかったら、その時は電源を入れて僕に電話しろ』
「分った。言う通りにする」
『落ち着いて身を隠しているんだ。大丈夫だ。必ず見つける』
一郎は電話を終えた後、言われた通りにスマホの電源を切った。
そして、早く時間が過ぎることを願った。
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