――人生で何にもまして困難なのは、嘘をつかずに生きることだ。そして自分の嘘を信じないことだ。
その一文の重みと複雑さに耐え切れなくなった僕は文庫本を閉じて緊張を解いた。
どれくらい時間が経ったんだろう?
妹の言葉から逃げるように僕は古い図書館を訪れて扉を閉めた。
今日は古い図書館には掃除を行い、曝書を行うことへの簡単な見通しをつけるために来たはずだった。
そのために朝早くから準備をしてきたはずだった。
けれど、全くそんな気になれなかった。
気持ちを落ち着けるために何か手頃な本を選んで手に取り、閲覧席に腰を下ろした。ページを開いた。 ページを捲り続けた。
誰かの人生を眺めるように。
僕は本を閉じて大きく伸びをして、天井を仰いた。
すると、天井からドタバタと物音がした。
今度はガタコトと物音がした。
その物音は鼠が走り回っているにしては大きかったし、まさか猫や兎がいるとも思えなかった。いや、兎ならいるんだけど――
僕は螺旋階段のところまで足を進めた。
ぐるぐると渦を巻いた螺旋階段の内側に立って、僕は兎の巣穴を見上げてみた。
「フィン、もしかしているの?」
「うるさかったかしら?」
声をかけると、兎の巣穴からぴょんとフィンが顔を出した。その表情は相変わらず無表情で、空っぽの井戸のような二つの黒い瞳が僕を見つめていた。
「ううん。まさかフィンがいるとは思わなかったから、驚いただけ――で、何をしていたの?」
「別に、たいしたことはしてないわ」
何となく彼女がそれを話したくないんじゃないかと思い、そして僕自身が口にした“彼女がここで何をやっているかについて干渉しない”――不文律を思い出した。
「邪魔しちゃ悪いから僕はもう行くよ」
手に持っていた文庫本をひらひらと振って僕は踵を返した。
「ねぇ――」
振り返ると、フィンが僕を制止するように前のめりになって――手を伸ばしていた。
「ふぇ?」
「危ないっ」
彼女は落ちた。
螺旋階段の中心――円筒の空間に体半分を乗り出していた彼女は、手を伸ばした際にバランスを失って、そのまま宙に身を投げ出してしまった。僕は彼女を受け止めようと飛び出して両手を伸ばした。落ちてくるフィンを受け止めて胸の中に引き込んだ――その際の衝撃で僕は背中から地面に倒れ込み、そのまま後頭部を激しく打って目を回した。
「いてて」
星が回る頭を振って顔を上げると、器用に着地して僕の腰の上に馬乗りになった彼女が僕の顔を覗き込んでいた。
なんとか無事みたいだった。
「大丈夫?」
フィンは自分が二階から落ちたことに怯えた様子もなく、何事もなかったようにそう尋ねた。
「目が回ってるけど、何とかね。それにしても、けっこうおっちょこちょいなんだね。あまり高いところから身を乗り出さないほうがいいと思うよ」
僕は先日クローゼットの中から転がり落ちたことも含めて、そう言い添えておいた。
「私、昔から落ちたり転んだりが得意なの。危ないって分かってはいるんだけど、いつも気持ちを繋ぎ止めておけなくて、足を踏み外しちゃうの」
「厄介そうな特技だね。それより体のどこか痛い?」
「大丈夫」
彼女はゆっくりと立ち上がって衣服の乱れを直した。
彼女は先日顔を合わせた時と同じく、黒いカチューシャに夜色の制服、靴下は今日も着用しいなかった。
「もしかして家に帰っていないの?」
彼女は僕の質問には答えず、ただ無言のまま僕を見つめた。
「別に詮索しようってわけじゃなくて、制服のままだし、僕よりも早く書庫にいたみたいだから、もしかしたらここに泊まったのかなって思って」
「ねぇ、あなた、今ひま?」
「えっ? まぁ、そろそろ昼食にしようと思ってところだから、暇だけど」
「じゃあ、その昼食を持って上がって来てくれる?」
「いいけど」
「待っているわね」
そう言うと、彼女は何の説明もせずに螺旋階段をひょこひょこと上って行ってしまった。その姿を見て、僕はサリンジャーの短編小説『コネティカットのひょこひょこおじさん』を思い出したんだけど、それを彼女に話そうとは思わなかった。
サリンジャーの短編小説と同じく、彼女のことを理解するのはなかなか難しそうだなと思った。
そもそも理解すなんてことは不可能で、それは意味不明と匙を投げてしまうか、何となくこじつけてみて意味を見出してみるしかないんじゃないか――そんなふうに思いながら、ぐるぐると渦を巻く螺旋階段を眺めて、それと同じく僕の頭の中もぐるぐると回っていた。
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