マトリクス社の最寄駅である汐留駅に辿りつくと、一郎は肩で息をしながら券売機脇の壁に背を預けた。
大量の汗が額や背中を伝い、心臓は破裂しそうなくらいに鼓動している。
全力で走ったのなんて何年振りだろう?
運動が得意ではない一郎の体全体が、不平不満の声を上げていた。
「誰も追ってきて……ないよな?」
一郎は当たりを見回し、警備員の姿が見えないことを確認してから、都営大江戸線の改札に向かって歩き出した。
早く自宅に帰りたい。昔のように家に引き籠っていたい。時間を気にすることなくネットをして、撮りためたアニメや洋画を見たい。帰りにゲームショップにでも行って、新作ゲームでも買って帰ろうか? それともレンタルビデオ屋にでも寄ってみようか? いやいや、パソコンのパーツを買って一から組み立ててみるか?
一郎はこれからのことを考えて気分を高揚させようとしたが、スーツの振動で現実に引き戻された。スマホを取り出して着信の相手を確認すると柏木だった。着信はすでに数件溜まっており、留守番電話のメッセージも同じように溜まっていた。
それを見るだけで吐き気がしてきた。
一郎は怖くて電話に出ることもメッセージを聞くこともできなかった。
着信が途切れた瞬間にスマホの電源を切り、一郎は逃げるように改札を抜けた。
そのまま耳を塞ぎ、口を閉ざし、目を瞑って静かに暮らしたい。
心からそう願った。
一郎は大江戸線のホームで電車を待ち、光ヶ丘方面の電車に乗った。
地下鉄の車内はほぼ満員だった。一郎は痴漢に間違われないように両手を高く上げて、車内の隅の方で小さく丸まった。自分を追う不審な人物がいないかと探してみたが、誰も一郎のことを気にする様子はなかった。車内にいる人の多くは、まるで魂が抜かれてしまったかのように疲れ果てた顔で電車に揺られていた。
一郎も、そんな疲れ果てた群衆の中の一人だった。
しかし、あと三十分もすれば自宅に着く。
ようやく、全ての柵から解放される。
明日からは会社に行かなくていいんだ。一日中家に引き籠って、好きなだけネットを見たり、ゲームをやったりできる。ポテトチップスを死ぬほど喰って、コカコーラを一気飲みできる。撮りためていたアニメや映画を見るだけじゃなくて、過去の名作だって見れるんだ。ガンダム、エヴァンゲリオン、エウレカセブン、アイドルマスター、ターミネータ、マトリックス、アルマゲドン、タイタニック、プライベートライアン、何だって見れるじゃないか。
一郎は自分にそう言い聞かせたみたがやはり落ち着かず、不安や焦燥は募るばかりだった。
テロ。
その言葉が、やはり脳裏から離れなかった。
もしも明日、本当にテロが起こったらどうなるだろう?
それを知っていて黙っていた自分は、実際に起こったテロを見て何を感じるだろう?
一郎は未だに悩み続けていた。
「でも、テロなんて早々起きるわけないよな? この日本でテロなんて……それに警察だっているんだし」
ふと乗客の一人が広げている新聞に目を向けると、そこにはこんな見出しが書かれていた。
『葛城総理、半年前の国内テロ事件を受け、米国の民間軍事会社の受け入れを一部容認か?』
大仰な見出しが付いた新聞記事が目に飛び込んできた。
「そうか、あのテロ事件から半年しか経ってなかったのか?」
日々の仕事に追われ過ぎて時間の感覚がおかしくなっていることに、一郎は今さら気がついた。
そして、半年前にこの日本で起きたテロ事件を思い出した。
六本木ヒルズ内で起きた銃の乱射と爆発事件だった。最終的には人質を取っての立て籠り事件へと発展した。犠牲者の数は三十名に上り、怪我人の数は百名を超えた。日本国内で外国人が起こしたテロ事件としては、過去最大規模のものだった。
今現在の世界はテロの世紀と呼ばれており、アメリカで起きた9.11同時多発テロ以降の不安定な中東情勢や、世界的な不況などが引き金となり、世界各地でテロ事件が勃発するようになっていた。
日本国内でもいずれテロ事件が起こるのでは予想されていたが、その予想を上回る大規模なテロ事件に国内は一時騒然とし、多くの日本国民が恐怖した。
一郎が通勤に使用しているこの大江戸線も、テロが起きてから暫くは警備も厳しくなり、ダイヤの変更なども含めて騒がしい日々が続いた。
しかし、会社のプロジェクトに追われていた一郎は、国内で起きた悲惨なテロのことを考える余裕もなく、ただただ仕事をする機械になって、自宅と会社を往復するだけの日々を続けていた。
自分が社会で起きた事件や出来事に、日々のニュースにまるで無関心になっていたことに、一郎は今さら気が付いた。
「あんなことが、また明日起こるっていうのか?」
一郎は半年前のテロの様子を思い返していた。
煙を上げる六本木ヒルズ。激しい銃撃の音。逃げ惑う人たちの悲鳴。タンカで運ばれる怪我人や死体。そして、ニュースで流れる犯人の犠牲者の顔写真。
「でも、あの後テロ攻撃に対するための法律ができ経った話だったし……それにアメリカと何か条約を結んでいたような?」
一郎はそんなことを考えながら、乗客が広げている新聞に視線を移した。
『明日、米国と共同開発の無人航空機が国内初のテスト飛行へ』
まるで関係のない見出しだった。
一郎は再び自分の置かれている状況へと意識を向け直した。空恐ろしくなって大きく頭を振った。
「どうしよう?」と何度も自問してみたが、その答えが返ってくるはずもなかった。
地下鉄は、一郎が下車する中野坂上駅で停車した。
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