エレベーターに乗って行先階のボタンを押した一郎は、天上隅の監視カメラに視線を向けた。
誰かに監視されているような気がして仕方なかった。
鳩原部長と鵜飼室長の会話が頭から離れず、テロという言葉が繰り返し再生された。
「本当に……明日テロが起きるのか?」
一郎は心の中で呟き、警察に連絡するべきか頭を悩ませた。
しかし、何と説明すればいいだろう?
一郎はこの情報をハッキングして知り得たのだ。もしも警察に連絡をして間違っていたら、逆に不正がバレるのは自分で、訴えられて罰を受けるのは一郎自身だった。
それに、いきなりテロだなんて警察が信じるわけもない。ハッキングして得た情報は完全に消去してしまったし、鳩原と鵜飼室長の会話も録音していない。
つまり、証拠は何一つないのだ。
一郎が警察に駆け込んだところで、どうにもならないだろう。
「黙ったままでいるしかない。それに、俺は今日会社を辞めるんだ。二度とこの会社には顔を出さない。それでいいんだ」
一郎は決意を表明するかのように小さく呟いた。
エレベーターは目的の地上一階に到着した。
拭き抜けた天上の広々としたエントランスには、駅の改札によく似たゲートが幾つも並んでおり、全ての社員はゲートに社員証を翳して出入社する。
十八時半。
社員の終業時間が二十時なので、この時間での退社は早退ということになる。
一郎はここ数ヶ月、一度も終業時間丁度に退社したことなど無かった。そしてマトリクス社に勤務してから、一度も早退をしたことがなかった。
まさか、初めての早退が退職になるとは――
ゲートに近づくにつれて、一郎の緊張が高まっていく。誰かに監視されているんではないかという疑心暗鬼が、緊張に拍車をかけていた。すれ違う社員全員が、自分を監視しているような気がしてならなかった。
一郎はふと、ゲート脇に設けられたガラス張りの警備員室に視線を向けた。
いつもなら青い制服の警備員が一人立っているだけなのだが、今日に限っては三人も立っていた。警備員までもが一郎に視線を向けているような気がしてしかたなかった。
「……えっ?」
しかし、それは勘違いじゃなかった。
三人の警備員が、一斉に一郎に視線を向けて言葉を交わしている。その手にはタブレット型の携帯端末が握られ、何かの情報と一郎を見比べているようだった。
一郎の脳裏に過ったのは、その端末のモニタに一郎の顔写真が映っているという光景だった。
「まずい。僕を見てる。何で……どうして?」
一郎はゲートに向かう足を速め、急いで社員証を翳してゲートがが開くのを待った。焦る気持ちとは裏腹に、ゲートのディスプレイは赤い×印を表示して、警備員に確認を取るようにとの音声を発した。
「何で……何でだよ」
もう一度社員証を翳してみるが、結果は同じだった。
一郎は激しく狼狽した。
警備員室を見ると、様子を窺っていた警備員たちがエントランスに出てこようとしていた。
「――まずい。捕まる」
咄嗟にそう思った一郎は、頑なに自分の退社を拒否するゲートを見やった。
社員ゲートは駅の改札と同じように腰の高さくらいの二枚のフラッパーが行く手を阻んでいるだけで、大人なら何なく飛び越えられる物だった。
「やっ、やるしかない」
一郎は決意したことを即座に実行した。
短く助走をつけて走り幅跳び要領でゲートを飛び越えると、全力疾走で出口に向かって駆け出した。
「何をしてるんだ?」
「こらっ、待ちなさい」
背中に警備員の野太い声が張りついたが、一郎は振り返らずに走り続けた。会社入り口の自動ドアを潜り抜けて会社の外に出ると、真っ直ぐ人ごみの中に向って行った。
往来を行き交う人たちを搔き分け、邪魔な人間を押し退けながら、一郎は一心不乱に走り続けた。
振り返ったら捕まってしまう。
捕まったら一巻の終わりだ。
そんな脅迫観念に駆られながら、一郎は一目散に駅に向かって行った。
全ての事から逃げ出すように。
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