カクヨムはじめました!

小説投稿と雑記と飯のブログ!(たぶん……)

象と蝶~3話

第3話

 

kakuhaji.hateblo.jp

 

こちらで第一話から読めます ↑

 

 僕と影がいつも使っているバー「ヴィクターズ」までは、歩いて十分ほどでついた。

 駅前の繁華街を避けるようにして作られた知る人ぞ知るバーで、ここへは犬とも王とも来たことない。

 影と来るか、一人で来るかのどちらかだ。

 階段を下って地下の一階に降りて、分厚い鉄の扉を開けて中に入る。カウンターで十五席ほどしかない狭いつくりのバーで、絞られた証明、時代遅れのジャズ、堅物のマスターと、映画や小説の世界に出てくるような古臭いオーセンティックなバーが、そっくりそのまま現実に乗り込んできた感じだった。店内ではマイルスが流れていた。

 

「久しぶりだな、ここのところ見かけかった」

 

 カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターは、長い間待ち続けた手紙の返事が来たみたいな表情で僕を迎えた。チョッキベストにパリッとした白いシャツ、オールバックに撫で付けた黒い髪の毛に、人相のよくない顔のつくりの男だった。年齢はまだ若く三十代前半ぐらいだろう、着痩せして見えたが、その下の肉体がボクサーのように絞られていることに僕は気が付いていた。

 

「まぁ、いろいろと。オールドファッションド、ダブルで、マラスキーノ抜きで」

 

 僕は背の高いバースツールに腰をかけながら注文を口にした。

 

「そんなカクテルを注文するのはお前さんだけだぜ。最近の若造はバーに来て生ビールとハイボールしか飲まない。ハイボールなんて一体何で飲むんだ? あんなの酒じゃないだろ」

 

 吐き捨てるように客の悪口を並べたてた。このバーに客が少ない理由はそれだけで十分に伝わったと思う。しかしこのバーでは、この辺りで唯一まともなカクテルが飲めるので、安心して飲みたい酒を注文できるのが気に入っていた。バーテンダーの良さは気配りでも笑顔でもなんでもない、酒の上手さに決まっている。

 狭い店内には僕の他に一名しか客はおらず、影はまだ来ていなかった。唯一の客はいつ来ても必ずこのバーにいる初老の老人だった。身なりがよく、品もあり、バーでの振る舞いを知っている老人だったが、いつ来ても酩酊して眠りについているので、僕は老人が置物の人形なんではないのかと本気で考え始めていた。

 老人はいつも得体の知れない黄色のリキュールを一つ隣の席に置きながら、自身は地獄の底から汲んできたようなアブサンをストレートで飲んでいて、いつもアルコールが半分残った状態で泥酔していた。

 アブサンに関してはあの文豪で酒豪のヘミングウェイですら、その著書の中で危険であると書き記し、アブサンを使ったカクテル、デス・イン・ザ・アフタヌーン――飲んだら午後は死んだように眠ってしまう――という恐ろしいカクテルを、彼は自分の物語の中で作り出しているほどだった。そしてそのヘミングウェイは、六十二歳の時にライフルで自殺してしまった。

 老人は入り口とは反対の壁側の一番奥の席で、音も立てずに死んだように眠りについていた。それは本当に死んでしまっているように見えた。老人からは生の気配が感じられず、枯れ尾花のように、枯渇した人間の絞りカスのように、ただそこにいるだけだった。

 

「気にしないであげてくれよ」

 

 焦げ茶色のよく磨かれたバーカウンターに上に丸いコースターが置かれ、その上にオールドファッションドグラスが優しく置かれた。グラスの中には氷と琥珀色の液体、スライスレモンや、オレンジがグラスからはみ出るように色を添えて帆を張り、グラスの底には小さな泡を立てた角砂糖が船の錨のように沈んでいる。マドラーでフルーツや角砂糖を潰すも良し、溶けていく氷と共に変わる味を楽しむ良しの自由度の高いカクテルだ。

 

 僕は肩をマスターに肩をすくめてからグラスの中身を口に含んだ。よく冷えたバーボンウィスキーが喉を焼くように胃に落ちていき、口の中に独特の風味が余韻を残していた。

 

「一人でバーに来る人間は、みんな人に語れない孤独と悲しみを背負っているものだ」

 

 聖書の一説のように言うと、マスターは首を横に振った。

 

「そういえば、お前さんの相棒も最近よく一人で来る」

「影が?」

 

 少し信じられなかった。と言うよりも以外だった。

 影は一人で酒を飲むような男じゃないし、何より酒だって二十歳過ぎてから、ようやく少し飲み始めたぐらいの、僕に言わせば初心すぎる、純朴すぎる男だったからだ。

 一人でバーに来る人間はみんな人に語れない孤独と悲しみを背負っている。

 その言葉が現実的に意味を持ち、形を持ち始めた気がした。

 

「最近は何をやっているんだい?」

「酒を飲んでるよ」

「うちには来ないくせにかい」

「ここへ連れてこれる人間はそうはいないよ、酒の味の分からない奴を連れてきても追い出されるだけだろうし」

「ああ、そんな奴には猫の小便を入れてやるぜ」

「僕もそう思う。それに考え事をしているんだ」

「何を?」

「色々だよ」

「そうか、まぁ若いうちは沢山悩め」

 

 グラスの中身が半分くらいになった時、影が店のドアを開けた。まるで何かから逃げてきたような表情で、後ろめたそうに、少しだけ空けたドアの隙間から猫のように入ってきた。僕はその姿に幾分か驚かされた。彼は完全に自信を喪失しているように見えたし、自分自身さえも見失っているみたいに見えた。無くなってしまった自分の片割れを探し求めている、そんな様子だった。幽霊が自分の肉体を捜すように。

 

「待たせたか?」

「いや、バーでは待つなんて時間はないよ。ただ時間が流れるだけだ」

「そうか、ギムレットを」

 

 影はバースツールに腰をかけると小声で注文した。

 オーダーはいつも通りだったので少しだけ僕を安心させた。

 

 このバーを見つけたのは影だった。店の名前が「ヴィクターズ」で熱狂的なチャンドリアンの影には、心奪われるものがあったのだろう。マスターにレイモンド・チャンドラーのことが好きなのかと聞くと、「友人につけてもらっただけだよ。俺は本は読まない。物語には興味がないんだ」と、ぶっきらぼうに返答されたので、影は少しだけ肩を落とした。

 僕達は黙ったまま彼のギムレットが出てくるのを待った。二人とも同じ空間にいながら別のことを考えていたと思う。

 

 僕は影と二人でこのバーに始めて来た時のことを何となく思い返していた。

 初めて二人での酒を飲んだ時、それが影にとっての初めての飲酒だったと僕は確信している。このバーの「ヴィクターズ」という看板を見つけて、二件目はここにしようと言い、店内に入った。

 初めて飲むギムレットに感動したのか、影はそれを五杯も飲んでべろべろに酔っ払った。もともと酒が強いわけでもないくせに、ショートのカクテルを五杯も飲んだらそうなるに決まっている。まぁ僕としては一向に構わなかった。影があんなに楽しいそうにしているのを見たのは初めてだったし、興奮して自分を抑えきれずにいるのも初めてだった。酔っ払った彼は仕切りに僕に向かってこういった。

 

「お前がフィリップ・マーロウで僕がテリー・レノックスだ」

 

 僕として随分高く評価されたもんだと思っていたが、酔っ払った場では仕方のないことだった。

 

 ここでフィリップ・マーロウとテリー・レノックスについて少し話しておきたい。この二人の関係は、これからの僕達の関係に少なからず影響を与えてくるし、何よりもこれを読んでいるあなたにも読んで欲しいからだ。

 

 フィリップ・マーロウというのは、アメリカの文豪「レイモンド・チャンドラー」が生み出した、強烈すぎる個性を持った探偵であり、世界一タフな男だ。彼の有名すぎる台詞にこういうものがる。

 

「タフじゃな生きられない、優しくなければ生きてる意味がない」

 

 痺れるよな。

 

 僕だって何度聞いても鳥肌が立つ。

 テリー・レッノクスというのは、全部で七つあるフィリップ・マーロウを主人公に据えた長編小説の中の一つ、「ロング・グッドバイ」にフィリップ・マーロウの友人として登場する大富豪だ。戦争で壮絶な過去を経験し、そのせいで心に暗い影を持ち、それがテリー・レノックスのある種の魅力になっている。物腰は柔らかい丁寧な紳士だが、人を引き付ける所作と華麗な雰囲気を持ち、作中ではフィリップ・マーロウに「君の多くの部分を買っていた」とまで言わせる。

 

 あのマーロウにだ。

 

 話の筋はテリー・レノックスが殺人の容疑をかけられ、それをフィリップ・マーロウが幇助してしまう。そのことでフィリップ・マーロウは幾分かまずい立場に置かれるが、その後事件はテリー・レノックスが自殺をすることで一旦解決に向かう。しかし筋が通らず納得のいかないフィリップ・マーロウは、テリー・レノックスの疑いを晴らすために事件の解決に乗り出す。

 

 まぁ、こんなところだろう。

 

 濃い緑色の液体が注がれた背の高いグラスが目の前に置かれると、影は乾杯もせずに、一言も発さずにその液体を一気に飲み干した。僕は訝しげにそれを眺めたが何も言わなかった。

 

「もう一杯ギムレットを」

「大丈夫か?」

 

 そこでようやく声をかけた。影はナメクジが這うような視線で僕を見つめた。二つの大きな穴が僕を見ている。そんな印象だった。どこか空恐ろしい穴だった。何か潜んでいるようで、実は何もない。そんな瞳だ。

 

ギムレットには早すぎるかい?」

 

 完全に酔っていた。

 自分自身に。

 

 ここで僕から言っておきたいことが一つある。もしかしたらこの文章はこれが言いたくて書いているのではないかというほど、僕にとっては重要なことである。もちろんこの物語とは何の関係もない。それをご承知の上で聞いて欲しい。

 

ギムレットには早すぎる」

 

 この台詞は世界的にかなり有名で、聞いたことがある人も多くいると思う。この台詞で多くの人が、それも多くのバーテンダーが勘違いしていることを、この際正しておきたい。

 

 ギムレットはテリー・レノックスのお気に入りのカクテルで、ジンとライムを使った簡単なカクテルだ。作中ではこのカクテルへの言及がかなり多く存在する。そして件のこの台詞は、一般的にフィリップ・マーロウの台詞として世に知られているが、実は違う。

 この台詞はテリー・レノックスがフィリップ・マーロウに向かって言う台詞なのだ。

 だからと言って、僕はいちいち間違っている人に向かって、とくにバーなどでそんな指摘はしたくないし、したところで何にもならない。多くの場合は僕が異常なチャンドリアンとして白い目で見られるだけだろうから、この場で言わせてもらった。

だからこの場合、影の使い方が正しいのだ。

 

 僕がフィリップ・マーロウで彼がテリー・レノックスであることを前提とするならば。

 

「で、話って何だ?」

 

 次のギムレットが来る前に僕は尋ねた。彼は黙ったまま俯き、次のギムレットが来るのを待っていた。酒の力を借りなければ、酔いの勢いに任せてじゃなければ言えない話のようだった。やれやれ、僕は本気で溜息をつきたくなっていた。だいたい酒の場で持ち上がる話なんてろくなもんじゃない。それが酒の力を借りなければとなると尚更だ。何が一番厄介かって、酒の場での話はだいたい真実だからだ。

 新しいがグラスが目の前に置かれると、影は震える手でそれを持った。

「今度は」、僕は彼が口を付ける前に声をかけた。

 

「乾杯ぐらいするだろう? それに一気に飲み干したら酒に失礼だ。味わえよ」

 

 彼は頷くとグラスを掲げた。僕もほとんど空になったグラスを掲げてそれを重ねた。僕はグラスのぶつかる凛とした音色が影の心を沈めるように祈った。影は一口だけ酒を喉に流すと、グラスを置いて大きすぎる溜息をついた。重たすぎる問題の詰まった荷物を抱え込んだ、そんな溜息だった。

 

「恋に落ちた」

 

 抱えていた荷物が大きな音を立てて落っこちた。

 僕が隣で唖然としていると、俯いた顔のまま。もう一度溜息をついた。

 

「恋に落ちた」

「ああ」

 

 僕は面食らったように言った。猫騙しを食らった力士よろしく、罠にかかった鷺よろしくだった。全然うまくない表現で申し訳ない。

 

「どうすればいい?」

 

 影は訪ねるとギムレットを半分まで飲み干した。僕はオールドファッションドをもう一杯、今度はシングルで、もちろんマラスキーノは抜いて注文した。

 

「どんな女なんだ?」

 

 新しいオールドファッションドがコースターの上に置かれ、僕はそれに口を付けずに尋ねた。

 

「いい人だよ、多分最高の女性だ」

「抽象的過ぎる。それじゃ考えようがない。同じ大学か?」

「あまり具体的なことは言いたくないんだ」

「それじゃあ、相談に乗れないね」

「頼むよ」

 

 彼は懇願するように言葉を落とした。僕はここで始めて深い溜息をついた。

 

「上手いカクテルの飲めるバーに連れて行く。シャンパンカクテルを頼む。もちろんスパークリングワインなんて使うような店は論外だ。浅いグラスに沈められた角砂糖の儚い泡を眺めながら、グラスを相手の視線と重ねる。君の瞳に乾杯と呟く」

「ふざけている」

 

 影は小さくバーカウンターを叩くと、残りのギムレットを飲み干してもう一杯ギムレットを注文した。奥で眠りについている老人が目を覚ますんじゃないかと僕は心配したが、老人はピクリともせずに眠り続けていた。

 

「ふざけていない、そんなことしか言えないぐらい僕は混乱しているんだ。突然素性も言えないような女と恋に落ちて、どうしたらいいなんて言われても、僕には検討も付かない」

「確かにそうだよな。でも、本当に参っちゃってるんだ。自分のことがこんなに分からなくなったのは生まれて初めてなんだ。助けて欲しい」

「もちろん助けるさ。何も聞かずにティファナまで送ってくれと言われたって僕はそうする」

 

 それを言うと影は安心したように笑顔を浮かべた。ようやく僕の知っている彼の表情に戻った。

 神経質で勤勉で礼儀正しい男。

 大学内で僕が唯一多くを買っている人物。

 そして僕の友人。

 

「ありがとう、やっぱりお前はマーロウだ。そして僕はどこまでいってもテリー・レノックスなんだ」

 

 この時、僕はこの高すぎる僕への評価の言葉の意味を図り兼ねていた。最初にこの言葉を聞いた時からずっと、この言葉の真意は変わっていなかったことに、僕は最後まで気がつけなかった。

 

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