――あなたは世界中で起こる何もかもが、インチキに見えてるんでしょうね。
もう手垢がつくくらい読み込んだ物語の文章に顔を顰めて“ペーパーバック”を閉じた。
そして手の中に握りしめたもののソリッドさを確認した。
放課後、僕は図書館に向かい司書室のドアノブを回して中に入った。ノックをしなかったことを思いだしたけど、それが必要だとも思わなかった。
「はぁい。待ってたわよ」
「せめて、誰か確認してから言ってくれませんか?」
「図書館の司書室に顔を出す生徒なんて君ぐらいだけどね。このご時世に授業以外で紙の本を借りようなんて生徒も合わせて」
ソファーに腰を下ろして読みかけの本からゆっくりと顔を上げたシヲリさんは、そう言って穏やかに微笑んだ。肩から下げた緩い三つ編みが揺れて、それと同じ緩い瞳を真っ直ぐ僕に向けた。
「まぁ、座って座って。それで、あの古い図書館はどうだった? ドストエフスキーっぽくて、君が期待していたほどには、気に入る場所だったんじゃない? だけどここ数日顔を見せに来なかったところを見ると、がっかりしている、拍子抜けしている、そんな感じかしらー?」
シヲリさんに尋ねられて、僕は肩を竦めるに留めて彼女の正面に腰を掛けた。
「ふふーん。で、君が高校一年生の一年間を費やして手に入れたあの場所は、一体君に何を齎してくれたんだろう?」
シヲリさんは意地の悪い顔で立ち上がり、堆く積まれた本に囲まれたレコードプレイヤーに近づいた。慣れた手つきでレコードを一枚プレイヤーに乗せると、ジジジジと心地よいノイズが響いた後、この司書室ではお馴染みのピアノのメロディ――『スタークロスト・ラヴァーズ』が流れた。
シヲリさんはソファーに座り直した。
「ちょっとー、わざわざ司書室に来てまでダンマリ? 黙秘権の行使かしらー」
「とくに、これといって面白みのない場所でしたよ。それでも、一年間を費やしてこの鍵を手に入れるのには、相応しい場所だったんじゃないかなって思ってますけどね」
僕は今日一日、痛いほど握りしめていた古い図書館の鍵を――猫のキーホルダーのついたそれ指先にぶら下げてそう言った。
握りしめていた掌には、くっきりと鍵の後が残っていた。
そこに何かがあったことを証明するみたいに。
「ふふーん。そう、なら良かった。でも、他の先生方に見つかったら色々と面倒くさいから気をつけてね。あと、女の子を連れ込むのはいいけど、後始末もしっかりね」
「そんなこと、考えてもませんよ」
丸の中に棒を差し込むようないかがわしい手つきを見て、僕は慌てて言った。
古い図書館の二階で出会ったハックルベリー・フィンのことを考えた。
いかがわしいことじゃなくて。
彼女のことを口にしようかどうか、ずっと迷っていた。
だけど、結局口にしないことにした。
そう決めてここを訪れた。
僕は何も悟られないように、心の機微を必死に抑え込んでシヲリさんを見つめた。
彼女は僕の胸のうちを見透かしたような顔で微笑んだ。
「まぁ、それならいいけどね。私最近ローンで車買ったばかりだから、あまりハメは外さないこと」
「今時、車なんて買ってどうするんですか?」
「いいじゃない。軽だし、キャベツ色でかわいいし」
「車代浮かせて、キャベツ買ったほうがいいんじゃないですか?」
「私は『はらぺこあおむし』じゃないし、キャベツよりもお肉のほうが好きなのよ」
「へぇ、そうなんですか」
僕は興味なさ気にそう言った。
「さて、じゃあ古い図書館の鍵は君に預けたままでいいということね?」
「はい」
突然、落ち着いた声でそう言ったシヲリさんの表情は、年上の女性の顔で――デキの悪い弟を見つめる姉のような表情だった。僕に姉はいないけど。
正直なところ、もうあの古い図書館のことは綺麗さっぱり忘れてしまって、手つかずのままにしておいた方が、何事もなかったかのように高校生活を送った方がいいんじゃないかって何度も考えた。
あの古い図書館でハックルベリー・フィンに出会った時点で、僕が初めに期待していた、去年一年間を費やしていた理由は無駄になってしまったわけだから。
それでも、僕は手に入れたものを手放したくと思った。
もう二度と、自分で手に入れたものを無意味に手放したくは、放棄したくないと思った。
「じゃあ、一つおさらいをしておきましょう。君の“図書館警察”の活動はこれからも引き続き継続」
「それ、かっこ悪いからやめてくださいよ。普通に司書のアシスタント言って欲しいんですけど」
「うるさいわねー。かっこいいじゃない、“図書館警察”――スティーブン・キングよ。『スタンド・バイ・ミー』よ」
いろいろずれていたんだけど、僕は何も言わなかった
「それに加えて、あの古い図書館の管理を任せるわ。管理って言ってもたいしたことはしなくていい、ただ前にも言った通り、年に一度だけ曝書をしてもらう。それでよかったわね?」
「はい」
「よろしい」
僕の返事が気に入ったのか、彼女は満足そうに頷いた。
シオリさんは先程閉じた文庫本を優しく撫でた後、向かい合った僕と彼女を隔てている、ガラステーブルの上にそれを滑らせた。
文庫本はくるくると回りながら僕の目の前で停止した。
「“ドアというドアをためせば、そのうちの一つは夏へと繋がっている”。高校生――いいえ、“少年少女”であることって、私はそういうものだと思うの」
シヲリさんは誰に語るでもないような感じで、独り言のように言った。
「私の場合は開いてみたドアの数が少なかったんだけどね。今思い返してみると、私の周りにはもっとたくさんのドアがあって、私はどんなドアだって開くことができたんじゃないかって――そこは夏に繋がっていたんじゃないかって思うことがあるわ」
シヲリは少し寂しげに言って、机の上を滑らせて僕によこした文庫本を眺めていた。
彼女が着ているTシャツには眠たげな猫がプリントされていて、どことなくその猫は年老いているように見えた。もちろん、シヲリさんのたわわなバストで膨らんでいるだけかもしれないけれど――そのTシャツは、とても子供っぽくて彼女には似合っていなかった。
「君は一つ扉をためして開いてみた。それが夏に繋がっているかどうか、それは誰にも分からない。それってとてもわくわくすることだけど、とても怖いことよね? 君たちの世代になるとなおさらに」
「どうでしょう? 僕は自分のことだってよくわからないから、僕らの世代なんて言われかたをすると余計に分からなくなって、頭の中がこんがらがっちゃいますよ」
「それも、そうね」
「じゃあ、僕はもう行きます」
僕が立ち上がると、シヲリさんが僕の背中に言葉を投げた。
「その文庫本、本棚に返しておいて」
僕はガラステーブルの上の文庫本を――開いた扉の先を猫が眺めている『夏への扉』を手に取って司書室を後にした。
司書室の扉を開いて。
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